「なんでも」ということ

2012年2月7日|

「子どもを不幸にする一番確実な方法はなにか。なんでも手に入れられるようにしてやることだ」と言ったのはフランスの思想家ルソーだそうです(『いい言葉は、いい人生をつくる』斉藤茂太著、成美文庫)。

 18世紀を生きたルソーが、まさか21世紀の日本にタイムマシーンでやって来て、モノにあふれかえっている様子を垣間見て、「オーッ!ジャポーンの子どもたちはこれじゃあ不幸になってしまいますことネ」と心配して、この言葉を遺したわけではないのでしょうが、現代の日本の暮らしは、本当に便利になりました。

たとえば通信。その昔、そのまた昔、もっと昔。新聞社では「伝書鳩」が飼われていた事がありました。通信手段が無い現場から、記者が書いた原稿を届けるためです。優れた帰巣本能を利用して、脚にはめた小さな筒に入れた原稿を、新聞社までポッポと飛んで届けていたのでした。戦時中にも活躍した伝書鳩。すごいやつです。偉い!!

それが今ではスマホでポーン、です。写真も動画も音楽も、お金だって指一本でなんでも即座にポーン、です。こっちもすごいです。偉い!だけど、スマホを忘れて家を出たらお手上げです。落としでもしたら一大事です。通信障害なんぞ発生したらパニックです。すごく便利なものは、すごく不便な事態を容易に引き起こしかねないという側面をはらんでいるわけです。

子どもの遊びも変わりました。伝書鳩がポッポと活躍していた頃、男の子の遊びの必需品と言えば、「肥後守」。”ひごのかみ”と読みます。”ひごまもる”ではありません。広辞苑にもちゃんと「小刀の一種。折込式で柄も鉄製、「肥後守」と銘を入れる」と明記されている、由緒あるアイテムです。これ一本で豆鉄砲を作ったり、弓矢を作ったり、秘密基地を作ったり、と色んな遊び道具をクリエイトしていました。教えたり、教えられたりしながら。それらを使ってやる遊びもこれまた手作り。友達同士でルールを決め合って、それに従って遊んでいたのです。学校にも普通に持っていって、休み時間に鉛筆を削っていました。肥後守一本で、いろんな夢や想い出を作り上げてきたわけです。もちろん、今の時代に、肥後守をポケットに入れて持ち歩いていたら、大変なことになりますが・・・。

これに対して、今はゼロから遊びを創造し、その過程をも楽しむというのではなく、高度に創造され、完成された遊びを楽しむという側面が強くなっているように思います。遊びに限らず、様々なものが、なんでも簡単に(ただし、お金は要ります)手に入るようになった今日ですが、冒頭のルソーの言葉が、ふと頭をよぎった次第です。この時代の先に、どんな未来が待っているのだろうか?と。

さて、自立支援型介護、すなわちリハビリテーション介護を旨とする老健施設において、「あるがままの介護」、換言すれば、「なんでもしてあげる介護」が、利用者のためにならないことはご周知の通りです。その点において、ルソーの言葉を借りれば、「高齢者を不幸にする一番確実な方法はなにか。なんでも介護してやることだ」とは言えないでしょうか。「なんでもしてあげる介護」は、精神機能、身体機能ともに低下の一途をたどる危険性を内包しています。できることは自分でしてもらいながら、できないところは手助けする。また、工夫することにより自分でできるのであれば、その工夫をすることが大事です。また、できないのであれば、なぜできないのか?その原因を多角的な視点から探っていく事が重要であり、そのためにも、他職種によるチームアプローチが不可欠となってきます。

なんでもないような「なんでも」という言葉。しかし実際は決してなんでもなくはないんじゃないかなあ、と思った次第です。

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