研修会開きました(栄養給食部会、おまけ)

2013年8月8日|

 718日に宮崎市の介護老人保健施設ひむか苑開かれた(公社)宮崎県老人保健施設協会栄養・給食研究部会の研修会。「認知症高齢者の食と味の認知を考える」と題し、講演をされた同苑の医師、田代学先生は、同時に県内でも著名な郷土史家でもあります。そして宮崎の文化や歴史などに関する著書も多く出されていますので、そのほんの一部を紹介いたします。

【消えた赤江川 大淀川界隈新風土記】・・・平成7630日発行、印刷:身体障害者通所授産施設やじろべえ

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「大淀川は古くは赤江川とよばれていたのである」。つまり赤江(灘)に注ぐ大河が赤江川と呼ばれるようになったのはごく自然なことだった。ただし、この赤江川が大淀川に改称されたのではなく、「中央、つまり日本国から見たとき、日向国を二分する川は藩政時代には既に小戸川の転訛した大淀川が通称となっていた」、これが正しいのだそうです。変わったのではなく、消えていったということを田代先生は強調されています。

これを口火にし、大淀川に関する色々な事を徹底して調べ上げ、著され一冊です。中でも「ヅンブリ島の十万両」は衝撃的です。大淀川河口近くのヅンブリ島に、なんと十万両が埋められているというのです。1676年(元禄5)、幕府の領地となり、吉村庄屋清水清左右衛門が預かり仰せつかり、その子清蔵が請地を願い出て官の軍用金十万両を島の中ほどに埋めたらしいのです。「水をかぶる」の意の「ヅンブリ」島は、那珂郡田吉村にありましたが、今は陸続きで、丸島付近の大淀川と八重川に挟まれるあたりだそうですが、この十万両の埋蔵金話、果たして真実なのでしょうか。そのほか、寛文2年(1662年)に起きた日向国大地震や、宮崎平野の地名(大字、字、小字)の由来、さらに宮崎市と綾町に電気鉄道を通そうという計画があった話など、興味津々の内容です。

 

【甦れ宮崎城 完結編】・・・1999101日初版発行、江南書房

 

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 ほとんどの県庁所在地には城があったのに、宮崎市にはなかったのか?いいえ、「宮崎城」は実在したのです。宮崎市池内町の介護老人保健施設春草苑前を南に進むと、道の右側に「宮崎城址」の看板が見えます。そこに宮崎城はあったのです。県領主、高橋元種(あがたりょうしゅ、たかはしもとたね、元豊前国香春岳城主)、宮崎城主権藤種盛(ごんどうたねもり)、豊前国中津城主黒田如水、飫肥領主伊東祐兵(いとうすけたけ)、清武城主稲津掃部助(いなつかもんのすけ)などなど、宮崎城にまつわる歴史上の人物が登場し、当時の様子を生き生きと再現します。ただし、宮崎城の戦いは、あろうことか同士討ちだったことが後に判明するなど、読んでいて切なくなるような事実も紹介されています。

 裏表紙には田代先生自ら描かれた「宮崎城合戦之図」が載っており、先生の多才ぶりにも驚かされます。決して大河ドラマのテーマになることはないであろう宮崎城ストーリー。しかし、タイトルの「甦れ宮崎城」からも察せられる通り、なんとか史実を調べ上げ、後生に宮崎城を伝え残そうという、田代先生の熱い思いがひしひしと感じられる名著です。

 

【大淀川ミニ風土記 橋が語る宮崎】・・・2006(平成18325日発行、発行者:財団法人宮崎県建設技術推進機構、宮崎南印刷制作印刷

 

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 宮崎市の天満橋が開通したのを記念して、田代先生が著された”橋物語”です。宮崎市内の大淀川に架かっている(そして架かっていた)12の橋について、その歴史や構造的特徴、さらには周辺情報などが32話にわたって記されています。わずか71ページの中に貴重な写真や、ためになる「ミニコラム」など、盛りだくさんの内容。カバンに入れて「宮崎の橋探検」の旅に出たくなるような作品です。

 

・・・以上の作品は、現在書店では取り扱っていない事も考えられますが、図書館などにはあるかもしれません。田代先生、ためになる講演、そして書籍、ありがとうございます。そして今後さらなるご活躍を祈念申し上げます。

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