九州大会開きました(その10)

2013年12月2日|


 映画「『医(いや)すものとして』は
1950年代の白黒フィルムから始まりました。「一生に何回かしか医者に診てもらうことがない」という開拓地の農民の診療に、若月俊一医師を中心とする「出張診療班」が馬車で回ります。その目的の第一は早期発見。開拓民が入植した当時はとても耕作できるような土地ではなく、あるのは木の根ばかり。過酷な労働と限られた食生活で身体の変調を来しても、農民は我慢していたのです。

医者に診てもらう余裕はなく、「医者に診てもらったら次の日は葬式だ」というほどだった極寒の開拓地を回る中で、若月医師は「農夫症」、つまり健康を犠牲にしている農民の働き過ぎや不衛生をまとめた一つの指標を打ち出しました。そして「全村健康管理」を全国に先駆けて展開します。これは今で言う健康診断を軸にした健康管理予防活動で、15歳以上の住民が対象で、各人健康手帳を持ち年1回検診するもので、農閑期を利用してスタッフが各地域に出張し、身体検査に始まり尿や便の検査などを詳しく行い、最後は医師が念入りに診察していきました。また、この健診活動は村役場と住民が一体となって展開されました。毎月農村指導員と病院との話し合いがもたれ、粘り強い努力の結果、健康を守るための自覚が高まっていきます。

その一方で、若月医師はそれまで「手術をしてはいけない」と言われ、タブー視されていた脊椎カリエスの切開手術を初めて成功させ、その成果が学会で広く承認され、外科医としての評判も上がっていきます。また手術を公開し、観覧席の農民にマイクを使って詳しく説明しながら行うことで、手術や医療を民衆の直接のものとして受け取る形を作っていきました。

農民のための医療の実践を展開しながら、外科医としての評判も上がる若月医師。そんな中で、第1回日本農村医学会が長野市で開かれ、農村医学は飛躍的に発展していったのでした。同会の初代会長こそ、若月医師だったのです。

 若月医師は健康に対する啓もう活動の一環として、「演劇」や「病院まつり」にも取り組みました。なかなか医者にかからず命を落とすことも多かった農民に、回虫や結核、栄養失調などの病気の説明をはじめ、食生活や住宅環境、農業労働のやりかた等についてわかりやすく説明し、このような活動は地域づくりにつながっていきました。

 

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「農民とともに?若月俊一と佐久病院の60年」。チラシの裏面にはそう書いてありました

(つづく)

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