研究大会開きました(その5)

2014年5月2日|

【本間達也先生特別講演(2)

 この大震災が発生したとき施設はどうだったかというと、ちょうど入所の職員はオムツ交換や離床介助、そして入浴介助をしていました。そして施設長は運良く回診中でした。また通所リハビリではレクレーションを行っている時間でした。

スライドに示しているのは女川町の写真です。私が住んでいるところからはちょっと時間がかかるのですが、ここでビデオを見て下さい。

 

(高い所から撮影したビデオで、津波が来る直前から始まり、海から津波が道路に押し寄せだしたかと思うと、瞬く間に町を飲み込んでいき、そして同じくらいすさまじいスピードで濁流が家屋や車、あらゆるものと共に海へと流れ去っていく内容でした。至る所で車のクラクションがショートし「ピーピー」と鳴り響き、これが大量のがれきがぶつかりながら流れて行く音と相まって、耳をつんざかんばかりの大音量となって町中に響き渡っていくという、大変ショッキングな内容の影像でした。)

 

 大津波が来るということで、女川町にある老健では全員3階に避難することを決定しました。避難住民の手を借りて、3階屋上に利用者を避難させました。雪が降りしきる非常に寒い中、屋上で頭から布団をかぶせながら待機していると、どんどん水が上がって来て、1階のデイサービスは浸水していきました。

 スライドは私どもの施設です(タイトル名:「東日本大震災によって発生した諸問題とリスクマネジャーとしての対応」)。うちの事務長は全国老人保健施設協会(全老健)の「リスクマネジャー養成講座」の一回生でした。当初はパニックに陥りましたが、養成講座の本をぱっと手に取り、マニュアルに従って災害対策本部を立ち上げてやっていきました。

震災直後のライフライン状況ですが、停電が3日間、断水が3日間、エレベーターの停止も3日間でしたが、余震が来ると自動的に止まってしまうので実際には一ヶ月くらい使えず非常に困りました。私どもの老健は2階と3階に入所のベッドがあるので配膳車が使えませんでした。固定電話の不通は4日間続き、当時は携帯もメールもだめでした。そこでリスクマネージャーが指示を出し、毎日各部署の幹部職員に朝8時半に集まってもらい、それから日が暮れるまで連絡の有無にかかわらず3時間ごとに集まって情報収集をしながら明日どうするか、ということを考えていきました。せいぜいラジオしか使えないという孤立無援の中で考えたのは「3時間ごとに集まってくれ。その間の情報をくれ」という原始的な方法です。そしてその中から状況を判断して「3時間後までにはこれをやってほしい」、「お昼までにはこれをやってくれ」、「どこで何が一番問題になっているか」「明日どうするか」、「3日後はどうするか」などと3時間ごとにやってホワイトボードに上げてトリアージしていきました。

これを日が暮れるまでやりました。その頃の福島県だと5時過ぎには暗くなります。暗くなると後はストップです。それは地震で信号が止まっていたこともあり、道路の一旦停止の所に軽自動車がすっぽり埋まってたということがあったからです。たぶん夜車を走らせていて、一旦停止しようと思ったら路面が陥没していたのがわからなかったのだと思います。車の中の人は出てこられたのですが、「夜は絶対活動してはだめだ」と瞬時に判断し、内規を作って取り組みました。パソコンがあってLANがあってメールでやりとりするなど対応するシステムがあるのはいいかもしれませんが、このときは携帯の基地も破壊されましたので、そういうことがほぼできない期間がありました。そこで何に戻るかというと、引き算して非常に原始的なやりかた、どちらかと言えばアウトドア的なやり方でやっていかないとだめだと思いました。

IMG_5417.JPG

(つづく)

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