研究大会開きました(その6)

2014年5月5日|

【本間達也先生特別講演(3)

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 次にガソリンですが、とにかくガソリンがありません。福島原子力発電所が水素爆発したので、福島県にはガソリンが来ないという話にもなりました。市内のスタンドでは1000円分のガソリンを入れるのに5時間並んで待つという状態が1週間続きました。裏ではリッター1万円という取引も出てきました。本当に車というものはガソリンがないと鉄のかたまりなんだと思いました。2週間後に東京に行き、マスコミとの懇談会でも、福島県の老健協会の会長として最初に訴えたのは「ガソリンを下さい」ということでした。宮崎もそうだと思いますが、福島は都会ではなく職員は軽自動車で通勤していたので、相乗りをするなどして対応しました。したがって「歩いてできること」をまず考えました。非常に苦労しました。

 そんな中、第一に利用者の安全確保に努めました。停電後は消防用自家発電機が機能していましたが、2時間後にはそれもストップしました。私どもの施設は2階と3階が療養室となっており、利用者を各階のナースステーション前に誘導しました。寝たきりの人はベッドごと誘導して一箇所に集まってケアを行いました。震災後、福島の気温は朝晩氷点下となり、降雪が続く中停電によってエアコンが使用できず、利用者の暖は衣服を厚着してもらいながら、毛布などで寒さ対策を行いました。ただ、これが8月だったら感染症が蔓延していたと思います。

 そんな中、外部の情報を得るために一番役に立ったのはラジオでした。手巻き式で発電でき、携帯電話などとつないで充電もでき、懐中電灯もついているもので、乾電池式不足の時に役立つ備品であり、貴重な情報源でした。

 そうこうしているうちに放射能の問題が出てきました。断水のためそれまで小学校や公民館の給水所に3時間から4時間並んで6リットルの飲料水の配給を受けていましたが、メルトダウンの問題が出てきてそれができなくなってしまいました。若いお母さん達などで隣県に逃げる人が続出しだしました。その時初めて原発の目の見えない恐ろしさを実感しました。

 飲料水以外の生活用水については、生愛会グループでは消防団にお願いし、ポンプで隣を流れる河の水をくんでもらいました。地元消防団や町内会とは消防訓練などを通じて普段から関わりを強化していました。それがこういうときに役立ち、非常に協力的になってくれました。風呂場に10トンの水をため、隣接の特養30床分11トンの使用を想定し、10日間分を確保しました。そういったこと等を通じて勉強になったことが数多くあります。

(つづく)

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