「貰っといてやる」の真骨頂

2012年2月8日|

  21日の朝日新聞文化欄は、このたび芥川賞を受賞された、田中慎弥さんの記事でした。「喜ぶ前に周囲にさらわれ 流された」という見出しがありました。候補に上がること5回目での栄誉でしたが、嬉しいというよりも、半ば不機嫌で記者会見に臨み、あの芥川賞を「もらっといてやる」と公言。周囲の関心を独り占めしていました。この発言部分、さすがにNHKのニュースでは、最初のうちカットされていました。

 この発言や、一風変わった(?)ライフスタイルから、作品そのものではなく、作家である田中さんの人物像ばかりにスポットが当たることとなり、少なからぬ違和感を抱いていた矢先に、今回の記事。「新聞やテレビの取材というのはどうして作品ではなく作家個人のことを訊きたがるのだろう」との記述があり、田中さんご自身もやっぱりそう思っておられたんだなあ、と納得しました。

 この記事で感銘を受けたのは、田中さんが「作家人生を芥川賞で終わらせたくない」と述べていたところです。この文の直前には、「見も知らない人からよかったですねと言われるよりは、どこかにいる目の肥えた読者から作品の不備を指摘されることの方が、私にとっては重要だ」。すごい!こんな発言、とても真似できません。だけど、これが田中さんの偽らざる気持ちなのだと思います。本人がそう願わずとも、「芥川賞作家の」という定冠詞は、この先ずっとついて回る。「先生」とあがめ奉られる。その事で慢心したくないという気持ち、そして往年の大文豪、二葉亭四迷と志を異にし、「文学は男子一生の仕事なり」と、これからもずーっと書き続けて行きたいという気持ちの表れなのでしょうか。スポーツの世界では、頂点を極めた後、心にぽっかりと穴が開いて、やる気が萎えてしまう「燃え尽き症候群」が言われていますが、田中さんのこの言葉を聞くと、読書好きにとっては「よくぞ言ってくださった!」と拍手喝采したい思いです。

 ところで、芥川龍之介を記念し、昭和10年から始まったこの芥川賞ですが、もしも龍之介があの世から「河童」の神様を従えて現世にやって来て、「これこれ田中君とやら。お前に吾輩の名を冠した”芥川賞”を授けようと思うのだが、果たしてお前にこの賞を受けとる意思はあるや?」と訪ねたらどうなるだろう?と、この受賞インタビューを見ながら思いました。これに対して、「(候補に上がるのは)今回が5回目ですから、断るのが礼儀なのでしょうが、私は礼儀を知らないので、もらっといてやる」と答えたとすれば、龍之介は「ほほぉーっ、こいつは愉快痛快!まるで吾輩のような奴が出てきたぞ。平成の文学界は面白くなりそうだ!」と大喜びして、河童の神様とハイタッチをするのではないか、と想像して楽しくなってしまいました。

 記事の最後は「もし芥川賞を私がもらうことに少なからず興味を持つ人がいるなら、大変偉そうだが私の過去の作品も読んでほしい。いや、(中略)文学史に残る大作家の名作を読み、改めて田中の作品に戻り、私の水準が低いことを確認するといい。そんなめんどううなこと、誰もやらないか」と締めくくってありました。いえいえ、誰もやらないはずはありません。私を含め、きっと多くの人がそれをやることと思います。中には「読んでおいてやる」などとのたまう強者もいるかも。ただし、「水準が低い」と思う人がいるかどうかははなはだ疑問ですが・・・。いずれにせよ、本を読む楽しみがまた一つ増えました。

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