Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その3)

2015年10月12日|

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 菊池先生は「つい最近まで『戦後70年』と言われていましたよね。だけど終戦記念日が終わってからその言葉が遠い昔のような感覚になっているようです。しかしやはり戦後70年という時期だからこそ考えなければならないことがあると思います。それは我々がケアしている人たちは何歳の方々が使っているのか、と見てみると、うちだと利用者の平均年齢が87歳です。そうするとだいたい75歳から100歳くらいまでの方々がサービスを使っているわけで、皆さんの事業所もだいたい同じだと思います。そうするとその方々は物心ついた以後に1945年から約4年間続いた太平洋戦争を経験なさっています。青春時代をその辛く厳しい時代を生き延びた方です。日常的に自分の愛する親類を奪われて、自分自身の命も危険にさらされて、食べる物も十分ではなくて、本当に辛くて耐える4年間だったと思います。その時代を生き抜いて、今高齢者になって人の手を借りて暮らさなければならなくなった時に『長生きして良かった』と思ってくれるのか、『こんな思いをするのだったらあの時死んでいれば良かった』と思ってしまうのか、それは我々の実践ひとつにかかっているのではないでしょうか」と切り出し、高齢者介護は人生の最晩年期に関わるものであり、それゆえに誰かの人生の幸福度に決定的な影響を及ぼしかねないという責任があることを、戦後70年の日本であるからこそ考えなければならないと強調しました。そして「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものに替わるでしょう」というマザーテレサの言葉をスライドに示し、菊地先生が総合施設長を務める緑風園ではこの言葉を理念に掲げ、介護実践を行っていることを紹介しました。

 その上で菊地先生は昭和50年代、生活指導員を務めていた27歳代の頃から7年間にわたりケアにあたったひとりの女性入園者(Aさん)の事例を紹介しました。20の時に北海道大空襲で爆風を受け、背中に背負った愛娘の命と引き替えに自らは奇跡的に助かったAさんは、心と体に深い傷を負い、生きる意味を見失い、ことあるごとに「生きていて何もいいことない」、「死ねば良かった」と悲嘆の言葉を繰り返していたそうです。そんなAさんに菊地先生は「不幸な人がいるのだな」と思うと同時に、「Aさんがあと何年生きるかわからないけど、せめてうちの施設にいる間だけでも笑ってくれる時間、幸せに感じてくれる時間がつくれないか」と考え、背中のひどい傷跡のため他者との入浴を拒むAさんに対し、個別の入浴支援(当時は入居者50人に対し、「寮母」11人という配置基準で、とても個別浴を行うなど困難だったとのこと)を行うなど、親身になったケアを続けました。

 戦災で天涯孤独となったAさんは介護保険施行前に逝去。看取りに際し職員が見守る中、Aさんが息を引き取る瞬間まで彼女の手を握っていた菊地先生に、Aさんは「あんがとさん」と言って旅立たれたそうです。この時のAさんへの取り組みは、その後の緑風園の介護実践のもととなり、今に引き継がれているとの説明に、受講者は最晩年期のケアにあたる者としての責務の重大さを痛感していました。

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その2戻る)             (つづく

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