協会活動報告

大会スナップアップします

 1114日と15日に開催した、「第14回九州ブロック介護老人保健施設大会inみやざき」の分科会の写真を、129日からアップしていきます。お楽しみに。

 ただし、諸般の都合により撮影ができなかった分科会があったり、画質が良くない写真もありますことをあらかじめお断りしておきます。ご理解、ご了承方お願いいたします。

九州大会開きました(その18)

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 1115日午後、宮崎観光ホテル碧燿(へきよう)の会場に参加者は集合しました。2日間にわたって盛大に開催された「第14回九州ブロック介護老人保健施設大会inみやざき」もついに閉会式を迎えました。

 挨拶に立った大会会長の大野和男宮崎県老人保健施設協会会長は、九州各地から来県し、共に研鑽し合った参加者に対し感謝の意を表明。そして櫛橋弘喜大会実行委員長をはじめとする大会関係者の労をねぎらうとともに、全老健熊本県支部長で一般社団法人熊本県老人保健施設協会の山田和彦会長に対し、「来年の大会も大いに期待しています」と述べ、次回開催地である熊本県にバトンを渡しました。

 

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(↑閉会の挨拶を述べる大野会長)

 これを受けて山田会長は「楽しく有意義な二日間に感謝します。様々なテーマがありましたが、もう一度老健はどうすればいか考えさせて頂く大会でした。九州大会はこれで3クール目に入りましたが、これだけの大会をやっているブロックは全国でもそんなにないと思います。九州が全国の老健、そして日本の高齢社会を引っ張っていくという意気込みをこの大会で示していただきました。来年の大会は熊本県で行います。皆さんに満足していただけるよう、実行委員会が一生懸命考えているところです。来年の717日と18日は、熊本県に是非来てください」と呼びかけました。

 

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(↑人気ゆるキャラの”くまもん”を「必ず連れてきます」と約束して下さった山田会長)

 

 最後に大会実行委員会の瀧井 修副委員長が「これをもちまして”第14回九州ブロック介護老人保健施設大会inみやざき”の全ての日程を終了いたします。来年熊本で会いましょう」と閉会を宣言し、800人が集い、互いに研鑽を積み、熱い議論を交わし、強い絆で結ばれた大会は幕を下ろしました。

 

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(↑瀧井副委員長による閉会宣言)

 

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(おわり)

九州大会開きました(その17)

 「第14回九州ブロック介護老人保健施設大会inみやざき」の会期中、会場内には機器展示ブースが設けられ、13の企業の出展がありました。

 最新の介護関連機器や福祉用具、介護食等が展示され、各ブースでは大会参加者と、それぞれの出展企業関係者との意見のやり取りが行われました。

 

【出展企業一覧及びホームページ(順不同)】

 

 〇伊那食品工業株式会社(http://www.kantenpp.co.jp/corpinfo/index2.html

 〇フジッコ株式会社(http://www.fujicco.co.jp/index.html

 〇株式会社五葉フーズ(http://www.goyou-foods.com/

 〇株式会社全老健共済会

 〇株式会社第一興商(http://www.dkkaraoke.co.jp/

 〇白十字株式会社(http://www.hakujuji.co.jp/

 〇イーライフ共和株式会社(http://www.elkyowa.jp/

 〇ティーアンドケー株式会社(http://www.biotene-tk.co.jp/

 〇オージー技研株式会社(http://www.og-giken.co.jp/

 〇株式会社VIPグローバル(http://www.vip-global.co.jp/

 〇ニュートリー株式会社(http://www.nutri.co.jp/

 〇九セラ株式会社(http://www.kyucera.co.jp/

 〇エコモ・インターナショナル株式会社(http://www.aquelajapan.com/

 

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(つづく)

九州大会開きました(その16)


 「第
8回介護老人保健施設リハビリテーション九州合同研修大会」は特別講演?に移りました。テーマは「生活期における脳卒中リハビリテーション」。講師には理学療法士で千里リハビリテーション副院長の吉尾雅春先生をお招きしました。九州合同研修大会という事で熊本出身である吉尾先生の弁に、会場を埋めた参加者は、終始聞き耳を立てていました。

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↑吉尾先生が会場に投げかける一言一言は、受講者の心を動かしていました

 

「人間としての生活とは何か?」と冒頭より投げかけ、私たちの心に強く訴えそして考えさせられる言葉の連続でした。常識が非常識に、非常識が常識に変えること、つまりチャレンジしないといけないという事。潜在的能力を顕在化する事ですよと強く訴えていました。

人間11人を大事にする事とは何か?また、生活期のリハビリとは身体的なものもだが、もっとメンタル的な事なんだ、エビデンス(評価)を元にもっとチャレンジするべきで、その方にしっかり向き合うべきだときびしい話をいただきました。

生活期というのは人間を診て行く事、テーマであり、脳の画像所見と生活期の整合性がないのはどうしてなのか?画像の活用性をもっと意味あるものとして捉える能力を持ちましょう。そして情報を共有していきましょう。我々医療従事者はもっと人間をみていくべきだと強く熱くメッセージを送っていました。

講演では脳画像と生活期にある患者様の様子を照らし合わせて紹介がありましたが、いかに我々の頭がプラトー(高原状態:一時的に進歩が足踏みしている状態)になっているのかとつくづく思い知らされる場面がいくつもありました。術者が無知な事で患者様がいかに悲惨な現状になっているかと会場の皆感じていると思います。人間をみているのであれば、もっとチャレンジしていいではないか。だって生活期の方ですとの言葉を繰り返されていました。

脳は地図。地図を解らずに運転しているタクシードライバーに乗るのは怖い事。医療従事者は目的地にきちんと連れて行ってくれるタクシードライバーであってほしいと願う。なんとなくとか、私はこう思うなどで評価していませんか?アプローチしていませんか?根拠なしに評価、アプローチして患者様の人生に影響を与えていいのか?生活期では多くみられている状況ではないかと問われていました。

なぜ患者様の可能性を無視するのか、権利はどこにあるのか?患者様と向き合い負の連鎖を断ち切って生活期の患者様の可能性を潰さないで下さいという事です。

人間を取り戻すことは生活期で起こっている、「人間はどう歩くかよりもどう生きるかが大切である」のではないか、潜在的能力を顕在化する事を無視しないで本気で向き合う姿勢を持って下さいと繰り返されました。

「たった一言が人の心を傷つける、たった一言が人の心を暖める」・・・。障害のある方が前向きになる関わり方をして、その時かける言葉かけをもっと考える必要がある。ICFでいう環境因子は生活環境だけでなく、目の前のスタッフ達である事を肝に銘じて関わらなければならない。

「可能性を知るという事が大事です」、と吉尾先生の熱意ある生活期の講話をいただき、我々医療福祉従事者のチャレンジ精神と根拠あるエビデンスにて潜在能力を顕在化するという事を念頭にリハビリテーションを展開していきたいと思いました。(W)

 

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(つづく)

九州大会開きました(その15)


  11
15日。公益社団法人全国老人保健施設協会(全老健)九州ブロックと公益社団法人宮崎県老人保健施設協会主催の「第14回九州ブロック介護老人保健施設大会inみやざき」は2日目を迎えました。

この日は1日目に引き続き6つの会場で12の分科会が行われました。そしてこれと並行して「第8回介護老人保健施設リハビリテーション九州合同研修大会」が同じく宮崎観光ホテルで開催されました。この研修会は(公社)宮崎県老人保健施設協会リハビリテーション研究部会が主体となって準備・運営にあたり、約300人の参加がありました。

 

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開会の挨拶に立ったリハビリテーション研究部会の中村豪志委員長

 

特別講演?は、「コミュニケーションからみた認知症 ?評価・支援の基礎と実践?」。講師は言語聴覚士で、志學館大学の飯干紀代子教授にお越し下さいました。

 

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わかりやすく、聞きやすく講演する飯干先生

 

 コミュニケーションという観点からをやわらかな口調で、言語聴覚士の視点として話し手と利き手の会話の流れ(Speech Chain)から講話をいただきました。

少しの舌位置の違いでコミュニケーション障害は出現しうるもので、一言で認知症といっても認知や言語、構音など症状もさまざま。また、加齢によるもの、入れ歯があわない事によるもの、廃用によるもので構音や聴覚の障害を多数の方が生じているとのこと。

認知症の実数値は400万人を超えるとも言われている中、認知症のコミュニケーション障害の評価と支援について、具体的な紹介がありました。

認知症診断には詳細な現病歴と画像診断が必要だが、現実、福祉介護施設ではそれらを無しに対応しなければならない事が多く、重要になるのは原因疾患別にどういう症状が出現するのかしっかり知ること。それに応じた対応をする事だとポイントを示しました。

原因疾患別にコミュニケーション障害の話がありましたが、思うに、はたして私たちの日常生活の中で「会話」は論理的にしているのか?という疑問を投げかけました。私達も話がかみ合わない場合や同じ話をする人もいます。理想的な会話は私たちもしているのか?という事。すなわちコミュニケーションとは何なのか?認知症の方の会話のように話はかみ合わないが何か楽しそうに会話を続けてコミュニケーションをとるという事は大切なことではないかという側面も考えられます。

また、例として物盗られ妄想のある方で疑われた人というのは親身になってお世話している人が多いが、これはその方にとってかけがえのない人であるという証と解釈ができる。人間の感情のコントロール不足からくるもので、どうでもよい人は関心がないから話にも出てこないという事ではないだろうか。認知機能の低下した方はこのように行動や妄想など不安や怒りなど含めBPSDとして感情や意図の表れとして非言語メッセージでとして伝えてくると考えられるとの事。コミュニケーションの奥深さを再認識するところでした。

認知症がなぜ社会問題になるのか、抱える問題は何かを言語聴覚士の立場から詳しく解説していただき、患者様と向き合う事、支援の仕方を構築していく姿勢を示していただきました。

ポジティブな面を発見していく事が大事であり、例としてMEMORY BOOKSを活用する事をされていました。エビデンスレベルを高めていく為に日々の臨床が大切である。非薬物療法としてのエビデンスを確立していきたいと示されていました。

認知症コミュニケーション支援として具体的説明を交えながら講話をいただき終始真剣な表情で会場は聞き入って終了となりました。(W)

 

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(つづく)

九州大会開きました(その14)

 初日の講演会、そして分科会が終わり、引き続き懇親会が行われました。

 

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↑挨拶に立った大会会長である(公社)宮崎県老人保健施設協会の大野和男会長

 

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↑乾杯の音頭は櫛橋弘喜大会実行委員長がとりました

 

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↑基調講演の宇都仁惠先生(右端)、そして市民公開講座の若月健一代表(左から2番目)の両講師も臨席いただき、団らんしたり、気さくに質問に応じたりと、長時間の講演の疲れも見せずに参加輪に入って下さいました。

 

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↑ウエルカムコンサートで美声を披露して下さった女声合唱団エレガンテ・セレーノ

 

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↑神話の里宮崎のPRにも一役買っていただいた住吉神社神楽の皆さんによる勇壮な舞い

 

 

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↑河野俊嗣宮崎県知事も駆けつけて下さいました。「皆様が日頃高齢者福祉にご尽力下さっていること、そして大会をここ宮崎で開いて下さることに対し、皆さんに心より感謝申し上げます。県としても皆さんと一緒に高齢者福祉を進めていきたいと思います。九州のみなさんで、力を合わせてやっていきましょう」と感謝と激励の言葉を頂戴しました。

なお、本大会開催にあたっては、公益財団法人みやざき観光コンベンション協会からも全面的なご協力をいただきました。

 

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↑県域はもとより、施設や職種の垣根を越えて親睦が深まりました。また会場のあちこちで真剣に議論したり、情報を交換する姿も見られ、「共に創ろう、老健の未来のカタチ『みんなが安心して老いる社会を目指して』」のテーマのもと、大変充実した懇親会となりました。2日目もさらに実のあるものにしようと誓いながら、大会初日は終了しました。

(つづく)

九州大会開きました(その13)


 映画に続き、佐久総合病院映画部農村医療の映像記録保存会の若月健一代表が講演を行いました。

【講演の概要】

 映画に出てきた「農民とともに」、「予防は治療に勝る」などは私達職員全体がその方向に進もうという佐久総合病院のスローガンです。また私達の経営方針は「532方式」というものです。病院の力が10であれば、そのうち5を入院患者さん、3を外来医療、そして2を保健予防活動や公衆衛生活動や福祉活動、高齢者ケア活動にあてようというもので、これは昔から言われているものです。それが病院の職員全員の頭の中にしっかり入っており、絶えずそれに基づいた考えをしながら行動しています。

 こういう病院もあるということがわかっていただければいいと思います。ただし、大事なのは、老人保健施設は全国に3800ほどありますが、やはり地域に根ざしていないとだめだと思います。施設が地域と一体となっていないと本来の老健の活動はできないのではないでしょうか。地域のみなさんの理解と協力がなければ、いくら老健だけが頑張ってもできなません。「中間施設だから帰りましょう」と、どんどん家に帰していては老健施設は嫌われます。家族の立場や状況を考えずに、中間施設としての立場を必死に守ろうと、ただ「帰せ!」というだけでは非常に問題があります。その地域の実情、家庭の実情に合った形で老健施設は何ができるか?それを考えないといけないと思います。

 私も(老健を立ち上げた)最初のうちは何をやっていいかわかりませんでした。最初7つの施設の施設長が集まって、厚生省(現厚生労働省)の人も一緒になってああしよう、こうしよう、ああでもない、こうでもないと話し合っていました。やはり7つの施設それぞれに特徴があり、その特徴を大事にし、地域の中の実情を汲みながら「通過型の施設にしよう」とか、「在宅ケアを支援しよう」などと、それぞれの施設を作り上げてきた経過があります。

九州の老人保健施設の皆さんも、おそらくそういう視点で取り組まれているだろうと思います。どうしても施設の実情があって難しい事もあるでしょうが、病院も老健も全く同じです。福祉施設でも同じです。しっかりと地域に根付かないといけなません。それには時間がかかります。一年や二年では根付きません。やはり十年、二十年、三十年と時間を掛けてこつこつとやっていくことが大事だと思います。

私達も昭和20年代の当初からずっと地域の事に目を向けながら、また逆に地域から学びながら進めて参りました。そしてその中で行政機関やJA、民間組織なども応援してくれるようになりました。そのように色々なところから応援してもらって運営していくのが望ましいわけです。そしてそのためにも、一番大事なのはやはり地域の皆さんです。みなさんの理解と協力が得られるようになれば、かならず市町村などの自治体が支援してくれるようになります。「自分たちだけがやってるんだ」という感覚ではなく、「みんなでやっていくんだ」という認識を作っていくべきだと思います。

映画では若月俊一という医者を中心にしていますが、実際は若月俊一だけではありません。病院の職員が一生懸命やりました。努力もしました。けれどそれ以上に地域の皆さんが病院に対して温かい目を向けて下さるようになりました。これが一番強かったということを、このフィルム中では訴えています。

そして今、私達は「地域住民の皆さんに応えるにはどうすればいいのか?」ということを模索しています。映画にもあった通り病院を二つ分けて、その中でどう職員を一体化させていくかということを議論しています。二つの病院の人事交流をどんどんやって、みんなが切磋琢磨すればいいのではないかと考えています。

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(講演終わり)

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佐久総合病院の基幹医療センター(仮称)は、1225日に引き取りが始まり、そして来年の31日には開設する予定とのことで、その直前の大変忙しい中を縫って講演に駆けつけて下さった若月健一代表に、会場からは惜しみない拍手が贈られました。

映画、そして講演ともに私達老健施設に勤める者にとって、地域および地域住民の理解と協力を得ることがいかに重要かを再認識する、非常に貴重な機会となりました。

また、さきごろも紹介しましたが、映画「医す者として」の公式ホームページhttp://iyasu-mono.com/)も是非ご参照下さい。

(つづく)

九州大会開きました(その12)

そして今、この「二足のわらじ」を履いて展開してきた佐久総合病院は、この言葉を見直す時期、つまり再構築の時代を迎えています。戦後農村は大きく変貌し、農民病も影をひそめ、生活も豊かになって来た中、同病院のベッドは増えず、医師は4倍以上に増え、急速に医療の専門化、高度化が進んできているのだそうです。医師も看護師も地域に出られなくなり、機能的に昔と同じことができなくなってきました。

そこで佐久総合病院では平成8年に「佐久病院将来構想に関するプロジェクト」を発足、地域の医療と暮らしを守るため、東信地域の医療機関と相互の連携に基づいた地域医療の再構築をめざしています。具体的には生活圏における市民病院としての役割を「地域医療センター」が、また広域医療圏における基幹病院としての役割を「基幹医療センター」がそれぞれ担うというもの。

ただしこれは単に病院を切り分ける分割ではなく、同病院ホームページ資料によれば、「たくさんの種類の草花がぎっしりと大きく育った鉢を、その草花の性質を考えて整理し、2つの新しい鉢に植えかえること」。つまりこの2つのセンターで総合的に「二足のわらじ」を履いていくのだそうです。

映画の終わりは、この基幹医療センター(仮称)が来年の完成に向けて工事が進められていることが紹介されるとともに、若月俊一医師の「医療の民主化とは、いつでもどこでもだれでもが自由に医者にかかれて、医者がそれに広く応えられること。この医療の民主化は医療だけではできない。地域社会が民主化されなくて、どうして医療が民主化されるのか」という力強い言葉で締めくくられました。同病院ホームページ資料にも「私たちは地域のみなさんと一緒にこの再構築を進めることによって、生きがいあり暮らしが実現できるような地域づくりをめざします」とあるように、農民の命と健康を守ることに生涯をささげ、たくさんの業績を残した若月医師、そして地域の医療とくらしをこれからも守り続けていく佐久総合病院の取り組みが余すことなく盛り込まれた、感慨深い映画でした。

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(つづく)

九州大会開きました(その11)

 このように農民とともに歩んできた若月俊一医師、そして佐久総合病院ですが、1960年代から急速に進んだ高度経済成長は農山村を大きく変えていきます。兼業化が進み、農業の担い手が減り農業そのものが危うくなる一方で、農薬による健康被害や農業機械によるけがも深刻になっていきます。そのような情勢の下、1964年農村医学研究所が発足。農薬中毒や動力農機具による疲労と災害、人畜共通伝染病、農村病など、農民の健康障害の実態を科学的に明らにしていきました。

しかしさらに深刻な問題が加わってきます。それが過疎、高齢化の急速な進行。村に年寄りや老夫婦の世帯が増えていく中、1986年、国の指定を受けた佐久総合病院はついに老人保健施設のモデル事業を開始します。地域ぐるみの活動やボランティア活動を通じ、老人保健施設は高齢者ケアの拠点となっていきました。また、在宅ケア実行委員会もでき、24時間いつでも相談や緊急時の往診ができる体制ができます。この老人保健施設の開設と診療の拡大は時代の要請であり、地域のニーズ。つまり医療と福祉の垣根を越えていかに地域ケアを充実させるか?という課題を克服するためのインテグレーション(統合)だったのです。その試行錯誤を繰り返しながら現在、老人保健施設は病院と在宅を結ぶ拠点としての役割を果たし続けています。

今回の市民公開講座の講師としてお越しくださった佐久総合病院映画部農村医療の映像記録保存会の若月健一代表も、この老健施設の開設に尽力、貢献され、さらに施設長として高齢者ケアの第一線で活躍されました。

映画はさらに続き、在宅診療にあたる医師のインタビューが紹介されます。「若月(俊一)先生は来るべく高齢社会に向けてケア領域の重要性を言われるなど、先見性があった。農村部は高齢化が進んでおり、早くからこの課題に直面していた。ケア領域、福祉領域、生活を支援しなければ医療は成り立たない。農村医療こそが時代の最先端であり、医療と福祉、生活支援のバランスはどうあるべきかという日本の将来を考えるには、農村医療は色々な事を示唆してくれる」といコメントに続き「二足のわらじ」という言葉が登場しました。

それは「若月(俊一)さんは『二足のわらじを履く医者になれ』と言い続けました」というナレーションです。それは「医者として高い専門技術を持ちつつ、その一方で、地域に出て、どんな患者にも対応できる医者になってほしい」という若月医師の強い願いだったのだそうです。

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(つづく)

九州大会開きました(その10)


 映画「『医(いや)すものとして』は
1950年代の白黒フィルムから始まりました。「一生に何回かしか医者に診てもらうことがない」という開拓地の農民の診療に、若月俊一医師を中心とする「出張診療班」が馬車で回ります。その目的の第一は早期発見。開拓民が入植した当時はとても耕作できるような土地ではなく、あるのは木の根ばかり。過酷な労働と限られた食生活で身体の変調を来しても、農民は我慢していたのです。

医者に診てもらう余裕はなく、「医者に診てもらったら次の日は葬式だ」というほどだった極寒の開拓地を回る中で、若月医師は「農夫症」、つまり健康を犠牲にしている農民の働き過ぎや不衛生をまとめた一つの指標を打ち出しました。そして「全村健康管理」を全国に先駆けて展開します。これは今で言う健康診断を軸にした健康管理予防活動で、15歳以上の住民が対象で、各人健康手帳を持ち年1回検診するもので、農閑期を利用してスタッフが各地域に出張し、身体検査に始まり尿や便の検査などを詳しく行い、最後は医師が念入りに診察していきました。また、この健診活動は村役場と住民が一体となって展開されました。毎月農村指導員と病院との話し合いがもたれ、粘り強い努力の結果、健康を守るための自覚が高まっていきます。

その一方で、若月医師はそれまで「手術をしてはいけない」と言われ、タブー視されていた脊椎カリエスの切開手術を初めて成功させ、その成果が学会で広く承認され、外科医としての評判も上がっていきます。また手術を公開し、観覧席の農民にマイクを使って詳しく説明しながら行うことで、手術や医療を民衆の直接のものとして受け取る形を作っていきました。

農民のための医療の実践を展開しながら、外科医としての評判も上がる若月医師。そんな中で、第1回日本農村医学会が長野市で開かれ、農村医学は飛躍的に発展していったのでした。同会の初代会長こそ、若月医師だったのです。

 若月医師は健康に対する啓もう活動の一環として、「演劇」や「病院まつり」にも取り組みました。なかなか医者にかからず命を落とすことも多かった農民に、回虫や結核、栄養失調などの病気の説明をはじめ、食生活や住宅環境、農業労働のやりかた等についてわかりやすく説明し、このような活動は地域づくりにつながっていきました。

 

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「農民とともに?若月俊一と佐久病院の60年」。チラシの裏面にはそう書いてありました

(つづく)

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