報酬改定セミナー申し込み25日まで

  先だって通知いたしておりました、33日の介護報酬改定セミナーの開催文書を、各会員施設あてにファックスで送付しました。

 参加のお申し込みは225日まで。別紙「出欠連絡表」により、サンヒルきよたけ(担当:濵砂、FAX0985-84-0700)までお願いします。

 詳細はこちらをご覧下さい。多数のご参加をお待ちしております。

仕事の原理

  物理学の世界において、「仕事の原理」なるものがあります。『広辞苑』には「道具を使うと小さな力で仕事をすることはできるが、仕事の総量は不変であるという力学上の基本原理」とあります。餅は餅屋、というわけで『四訂版例題と演習物理?』(数研出版)を開くと、実に含蓄のある表現がなされていました。

 「物体を引き上げるとき、機械を使って必要な力を小さくすることはできるが、仕事で得をすることはできない」・・・。うーん(-_-)。物理学的に見れば当たり前のことですが、私たちの仕事に当てはめて考えると、洞察に富んだ、実に深い言葉に思えます。

 介護関連用品には様々な便利な機械や道具があり、それもどんどん新しい物が開発されています。これにより、介護負担がうんと軽減されるものも少なくありません。ただし、それを使うのは生身の人間!そしてその対象も介護を必要とする生身の人間なのです。物理学における「仕事の原理」を老健施設におけるそれに代入すると、「機械や道具を過信し、相手の心身の状態をよく考えずに、心を持たずして使っても得をすることはできない」と読み替えることができるのではないか?と思うのです。

 道具を適切に用いながら、身体的負担が減り、時間短縮が図れたならば、その分を「目かけ、声かけ、心がけ」に費やすことが、「老健施設における”仕事の原理”」と言えるのではないでしょうか。

やまいもをほる

  「やまいもをほる」というのは宮崎の方言です。「あん人はまたやまいもを掘りよるが」などと使われます。『改訂版みやざき観光・文化検定公式テキスト』(宮日文化情報センター)によれば、「酔ってくだをまくこと。酔って他人にからむ。またそういうことをする人を『ヤマイモホリ』と表したりする」とあります。あまり良い意味には用いられないですね。

 たしかにヤマイモ(山芋)の茎は、ほかの何かに(左巻きに)からまって伸びていきます。酔っ払って他人に絡む姿もそれに似ていると言えば似ています。しかし、「やまいもを掘る」となると、これはまた別な意味合いが出てきます。あの円柱状で、地中深く長く伸びる山芋のイモ(塊根)を掘るためには、同じ所を何度も何度もしつこく、くどくどと掘り下げていかなくてはいけません。途中で油断するとせっかくのヤマイモがポッキリ折れてしまいます。大変な作業ですので、ヤマイモの塊根のような根気、そしてとろろ汁のごとき粘り強さが要求されます。

 そのような事から、(酔って)同じことをくどくどと繰り返して、他人にからむことを「やまいもをほる」と形容するようです。確かに言い得て妙なる表現だと思います。しかしその反面、あの美味なるヤマイモに申し訳ない気もします。ヤマイモが聞いてたら「オレ、そんなんじゃねえよ!」「わたしのこと、酔っ払いと一緒にしないでよ!」(注:ヤマイモは雌雄異株です)と絡まれそうです。これぞ「ヤマイモがやまいもをほる」ということになるかも。

 現在市場に出回っているヤマイモは、しつこく掘り下げて採る天然のものではなく、畑にパイプを水平に埋め、その中で栽培する方法がとられているようです。ヤマイモ(というか畑イモ?)は横に伸びていきますから、「やまいもをほる」作業は、くどくなく、しつこくもありません。ですからこの際、酔って他人に絡む方の、迷惑な「やまいもをほる」というのもやめてはどうでしょうか!?郷土が生んだ国民的歌人、若山牧水も「酒はしづかに のむべかりけり」と詠んでいるではありませんか。

 

研修会を開きました(西都市ケアマネ連絡会)

 

 

IMG1324.jpg 西都市介護支援専門員連絡会(小野 美穂子会長=菜花園事務長)は213日、西都市総合福祉センターで研修会を開きました。

 同連絡会では会員相互の連携強化と資質向上などを目的に様々な活動を行っており、今回は講師にHealing forest(癒しの森)の代表で、社会福祉士の明石二郎さんを大分県から招き、「福祉の専門職としての価値と倫理 ?自分が利用したケアを考える・つくる・とりくむ―」と題し、講演をしていただきました。

 同市内の老健施設等の職員44人が受講。福祉サービスの理念や職業倫理などについて、事例検討を交えながら学び、福祉従事者としてプロフェッショナルであるためには、どうあるべきかを考える貴重な研修会となりました。

研修会を開きました(栄養・給食研究部会)

DSCN0372.JPG  (社)宮崎県老人保健施設協会栄養・給食部会は27日、宮崎市の宮崎第一ホテルで研修会を開きました。会員施設から39名が出席し、研鑽を積むとともに、忌憚ない意見を出し合い、情報交換をはかりました。

 研修会ではまず、昨年118日、西都市で開催し、好評だった「高齢者栄養教室」の報告を並木の里の井上美鈴さんが行いました。

 次に、「リーダーシップとコーチング」と題し、同部会の委員長である慶穣塾の瀧井修理事長による講演がありました。その中で瀧井理事長は「『名選手必ずしも名将にあらず』と言うように、栄養士として優秀であることと、管理者として優秀であることとは別のこと」と切り出しだしました。メンバーの自律性を促し、力を発揮させるとともに、成長を促進するために、コーチングが重要であると強調しました。また、「リーダーは自分の思いを言葉にして相手に伝える技術が必要である」として、自分の思いとは何かを自分自身が知り、聞き手が理解できる言葉でタイミングよく発していこうと呼びかけました。

 最後に平成24年度の事業計画についての検討や、意見交換が行われました。その中で、次回の「高齢者栄養教室」は県南地区で開催することとし、今後その詳細を詰めていくこととなりました。

 各参加者とも、熱心な態度で受講し、有意義な研修会となりました。

大会参加申し込み明日まで!

 9回社団法人宮崎県老人保健施設協会研究大会(316(())、於:宮崎観光ホテル)の参加申込み締め切りが、明日、215日(水)までとなりました。申し込みがまだお済みでない方や、参加を検討されている方は、こちらをご参照の上、お急ぎお申し込み下さい。

 4月から診療報酬が改定され、地域での医療・介護の連携や、在宅医療の一層の充実がはかられることとなりました。『いまこそ老健、原点回帰! ?利用者の想いを・・・?』と銘打った今回の研究大会で、今後の老健はどうあるべきか?講演や研究発表、そして忌憚の無い意見交換などを通じて探って行きたいと思います。多数の参加をお待ちしています。

介護報酬改定関連研修会を開きます

  4月からの介護報酬改定に伴い、下記の通り研修会を開催します。開催文書は後日各会員施設に送付いたしますのでご参照ください。多数の参加をお待ちしています。

 

 

1.開催日時:平成2433日(土)

      14時から1630分まで(1330分開場)

2.場所:宮崎観光ホテル東館「紅の間」

  宮崎市松山1-1-1

3.内容

 (1)平成24年度介護報酬改定について

 (2)介護(医療)の質マネジメントについて

4.講師:永廣 研二

5.講師略歴

○平成元年6月 医療法人社団大浦会 介護老人保健施設 博寿園に支援相談員として入職。 

○平成154 同施設の施設長として就任。

○平成175 医療法人金澤会 地域医療センター施設サービス部長、兼介護老人保健施設 青翔宛 副施設長として勤務中。
                        
 現在、熊本県老人保健施設協会 総務委員長、全老健 介護保険制度・報酬委員会 委員。

猫脚だにゃあ

  いやあ、すごかったですね。25日に行われた別府大分毎日マラソン。お笑い芸人でカンボジア国籍の猫ひろしさん、もとい!猫ひろし選手2時間3026という、自己ベストを7分も短縮する快走でフィニッシュしました。

実業団選手のレベルとして見れば、大した記録とは言えません。しかし、市民ランナーのそれとしてみれば、驚異的なものです。1キロあたり33391のペースを42.195キロずーっと続けるわけですから。市民ランナーの尊敬と羨望のまなざしを浴びる”サブスリー”、すなわち3時間を切る人でさえ、全市民ランナーの1%程度しかいないのに(これは1キロ415秒ペースです)、それより30分近く早いタイムだにゃあ、です。

テレビで観戦した猫選手の姿は、周囲の選手よりもひときわ小さいのですが、そのフォームは何とも綺麗で、ダイナミックでした。しかも沿道で応援する人達に手を振って、「ニャー、ニャー」と鳴きながら(?)のスマイルラン。さすが芸人!これは実業団選手にはできる芸当ではありません。もっとも、本業の「お笑い芸」がおもしろいか否かは別問題ですが(^_^;)・・・。

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 さてさて、突然ですが、写真は和室用のテーブル。すなわち「座卓(ざたく)」です。どうして急にこんな話をするのかって?実は猫ひろし選手と深―い関係があるのです。この座卓の脚の部分にご注目下さい。

DSCN1320.JPG 

 

 ここの名前、ご存知でしょうか?案外知られていないかもしれないこの座卓の脚の名前は何かと申しますと・・・・・ドロドロドロドロドロドロ(ドラムロールの音です)・・・ずばり、「猫脚」だにゃあ!”ねこあし”と読みます。広辞苑をひもとくと、「(1)膳や机の脚の形状の一。上がふくらみ、中がややすぼまり、下が円くて低く、猫の脚に似たもの」とあります。いかがでしょうか?何となく猫の脚に見えてこないでしょうか?えっ?ミッキーロークのパンチに見える!?((+_+))このほか、「(2)猫のように足音を立てないで歩くこと」という意味も併記してあります。

 しかし!!この『広辞苑』でさえも、あの猫選手の激走を目の当たりにした今、加筆を余儀なくされるかもしれません。すなわち、「(3)お笑い芸人、猫ひろしが”ニャー、ニャー”と鳴き、周囲に手を振りながらフルマラソンを疾走する様子およびその脚力。(4)小さくても大きく元気で楽しい走りで、人々に希望と感動を与える様子」と。

 果たして広辞苑の「猫脚」の記載が変わるか否か!?それは猫選手がカンボジア選手とてロンドンオリンピックに出場するかどうかにかかっている・・・かにゃあ?それはともかく、今後の同国の選手選考の成り行きに注目したいです。

はるはなのみの

  「はるはなのみのかぜのさむさや」で始まるのは『早春賦』(大正2年、吉丸一昌作詞、中田 章作曲)。老健の利用者様なら、大半がご存じと思います。昭和の頃の音楽の教科書までは載っていた名曲です。

 ずっと昔の事ですが、「この『早春賦』の歌いだしの『はるはなのみのかぜのさむさや』とは、どういう意味なのか?」とちょっとした言い争いになったことがあります。ある人が「”春、花の実の、風の寒さや“じゃないのか?」と言い出したのです。「一体、何の花の実じゃろか??」と。すると、別な人が反論したのです。「違うが!”春はナァ、ノミのォ、風の寒さやァ“じゃないかと思うとよ」と。たしかに、ノミにとって寒風はさぞかしこたえることでしょうけど・・・(-_-;)。もちろん正しくは、「春は、名のみの、風の、寒さや」。文語調の歌詞は、漢字もままならぬ子供たちにとって、しばしば誤解と論争のタネとなっていました。しかしながら、この歌詞は推敲(すいこう)を重ね、一つ一つの言葉を織り上げて、春にはまだ早い里の風景を実に美しく描いている、と今になってしみじみと胸を打たれる思いです。

「立春が過ぎて、暦の上は春ということになっているのだが、それは全く名ばかりのことで、吹き付ける冷たい北風が身に染みることだよ。谷間に住むウグイス達も、あの”ホーホケキョ”という美声を山里に響き渡らせたくてうずうずしているのだろうが、『こんなに寒かったらまだ出番じゃないようだね』と声も立てずにじっとしているよ」というのが1番の歌詞の意味でしょうか。だけど、こんなにぐちぐちと言うよりも、「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思えど 時にあらずと声も立てず 時にあらずと 声も立てず」と言葉を整え、8分の6拍子のメロディーに乗せた方が、心にスーッとしみてきます。吉丸一昌という詩人、そして、中田章という作曲家、素晴らしい日本の歌をこの世に残してくれた、とありがたい気持ちで一杯です。

この『早春賦』、2番になると「こおりとけさりあしはつのぐむ」(冬の間張っていた氷がすっかり融解し、”葦”という植物が角のように芽を出して来たことだよ)、さらに「さては時ぞと思うあやにく」(さあ、いよいよ芽吹きの時を迎えた、と思ったものの残念なことに)と続きます。「”“がどうしたというのか?」だとか、「”あや肉“とはどんな肉か」と、やはり疑問に思いはしたのですが、子供の頃にはとにかく耳で覚えたままに、「あしはつのぐむー」とか、「おもうあやにくー」とやっていました。

 一方、今のヒットソングの歌詞は、ほとんど全てが口語体。言文一致運動を進めた二葉亭四迷が、もし時代を超えて今にやって来て、現代の「名曲」を聴いたらどう思うだろうか、「あの頃の未来に、僕らは立っているのかなー♪」と口ずさむだろうか、と興味あるところです。それはともかく、『早春賦』に見られるような文語体による歌は、わかりにくい部分があるかもしれないけれども、それが理解できるようになると、却ってその素晴らしさがわかるのではないか?と考えます。

 立春が過ぎ、暦の上では春なのですが、相変わらず寒い日が続いています。「春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かるる胸の思いを いかにせよとのこの頃か いかにせよとのこの頃か」(もし「暦の上は春になっている」という情報を耳にしなかったら、心がときめくこともなかったろうに、それを聞いてしまったものだから、本当の春の訪れが心待ちでならなくなってしまったよ。ああ、この抑えられない胸躍る気持ちを一体どうしたらいいというのだろうか)と、『早春賦』を歌いながら、この名曲の素晴らしさを堪能するとともに、暖かい春の日差しが注ぎ始める始める日の訪れを待ちたいと思います。

「貰っといてやる」の真骨頂

  21日の朝日新聞文化欄は、このたび芥川賞を受賞された、田中慎弥さんの記事でした。「喜ぶ前に周囲にさらわれ 流された」という見出しがありました。候補に上がること5回目での栄誉でしたが、嬉しいというよりも、半ば不機嫌で記者会見に臨み、あの芥川賞を「もらっといてやる」と公言。周囲の関心を独り占めしていました。この発言部分、さすがにNHKのニュースでは、最初のうちカットされていました。

 この発言や、一風変わった(?)ライフスタイルから、作品そのものではなく、作家である田中さんの人物像ばかりにスポットが当たることとなり、少なからぬ違和感を抱いていた矢先に、今回の記事。「新聞やテレビの取材というのはどうして作品ではなく作家個人のことを訊きたがるのだろう」との記述があり、田中さんご自身もやっぱりそう思っておられたんだなあ、と納得しました。

 この記事で感銘を受けたのは、田中さんが「作家人生を芥川賞で終わらせたくない」と述べていたところです。この文の直前には、「見も知らない人からよかったですねと言われるよりは、どこかにいる目の肥えた読者から作品の不備を指摘されることの方が、私にとっては重要だ」。すごい!こんな発言、とても真似できません。だけど、これが田中さんの偽らざる気持ちなのだと思います。本人がそう願わずとも、「芥川賞作家の」という定冠詞は、この先ずっとついて回る。「先生」とあがめ奉られる。その事で慢心したくないという気持ち、そして往年の大文豪、二葉亭四迷と志を異にし、「文学は男子一生の仕事なり」と、これからもずーっと書き続けて行きたいという気持ちの表れなのでしょうか。スポーツの世界では、頂点を極めた後、心にぽっかりと穴が開いて、やる気が萎えてしまう「燃え尽き症候群」が言われていますが、田中さんのこの言葉を聞くと、読書好きにとっては「よくぞ言ってくださった!」と拍手喝采したい思いです。

 ところで、芥川龍之介を記念し、昭和10年から始まったこの芥川賞ですが、もしも龍之介があの世から「河童」の神様を従えて現世にやって来て、「これこれ田中君とやら。お前に吾輩の名を冠した”芥川賞”を授けようと思うのだが、果たしてお前にこの賞を受けとる意思はあるや?」と訪ねたらどうなるだろう?と、この受賞インタビューを見ながら思いました。これに対して、「(候補に上がるのは)今回が5回目ですから、断るのが礼儀なのでしょうが、私は礼儀を知らないので、もらっといてやる」と答えたとすれば、龍之介は「ほほぉーっ、こいつは愉快痛快!まるで吾輩のような奴が出てきたぞ。平成の文学界は面白くなりそうだ!」と大喜びして、河童の神様とハイタッチをするのではないか、と想像して楽しくなってしまいました。

 記事の最後は「もし芥川賞を私がもらうことに少なからず興味を持つ人がいるなら、大変偉そうだが私の過去の作品も読んでほしい。いや、(中略)文学史に残る大作家の名作を読み、改めて田中の作品に戻り、私の水準が低いことを確認するといい。そんなめんどううなこと、誰もやらないか」と締めくくってありました。いえいえ、誰もやらないはずはありません。私を含め、きっと多くの人がそれをやることと思います。中には「読んでおいてやる」などとのたまう強者もいるかも。ただし、「水準が低い」と思う人がいるかどうかははなはだ疑問ですが・・・。いずれにせよ、本を読む楽しみがまた一つ増えました。

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