停電とコスモス

  1021日の未明の事でした。雷鳴が轟いていました。雨も降って、風も強く吹いていました。その光景を眺めるともなく眺めていた、とその時です。

 遠くの空が一瞬ピカッと光ったと思ったら、大淀川の左岸側の明かりという明かりが一斉に消えたのです。ぷっつりです。橋の灯りも消えてしまい、街は真っ暗闇に包まれてしまいました。

 一方、川の右岸はというと、何の異常もなく、家の灯り、街灯の明かりとも点いていて、いつもの同じ街の表情を見せていました。

 川を挟んで、日常と非日常が向かい合っているその光景は異様でした。と同時に、普段は水や空気のように、あるのが当然と思っている電気の存在の有り難さを再認識させられました。特に今年は、節電への取り組みが叫ばれている最中。電気を大事に使わなければならないと思いました。

 それから何時間かが過ぎて、明るくなってからの事です。花壇のコスモスが、一本残らずも横倒しになっているのを見ました。激しい雨と風にやられたのです。実はその前日、やっと一輪だけ開花していたのです。「これからどんどん咲いていくね。写真を撮ろうか」などと話していたばかりだったのに、明けてみたら全滅です。ショックでした。しかし、その後のニュースで五ヶ瀬川のアユやなが濁流に流されてしまったり、落雷による火災が発生した事などが報じられ、事態は菜の花云々どころでは無いことを知りました。

 自然災害の恐ろしさを思い知らされる昨今です。それに加えて、人工衛星が落ちてくるかもしれない、なんてことまで心配しなければならない時代になってしまいました。文字にすればたった二文字の「安全」。しかし、絶対の安全というものは、なかなか保障されるものではないのだ、と思わずにはいられない出来事でした。

熊!?

  「老猿」(徳間書店)は、宮崎県出身の作家、谷克二さんの作品です。

 県北の山村で子供が猿に殺された。それを片目の猿の仕業とするその父親五平と村人達。しかし、長年の経験で猿が人を殺さないと知っている老猟師の伊助。「山ン人(=猿)は撃てない」と退治の依頼を断る。子供を襲ったとされる片目の老猿は、かつて山火事の際、伊助にしがみついて命を救われた子猿。子供のいない伊助夫婦は実の子のような愛着を覚える。駐留軍も駆り出して山狩りが行われる事を知り、猿を自らの手で「山に返す」事を決意する伊助・・・。  

 山に生きる人と動物の厳しさ、そして愛情を織り込んだ名作です。

 

 その谷さんも、さぞかし驚かれているのではないでしょうか?九州には生息していないと思われていたクマ。そう、「熊」です。それが宮崎にいるやもしれぬ!?というのです。1020日の宮崎日々新聞によると、高千穂町と大分県との境の祖母山で、クマらしき動物が目撃されたというのです。同紙は22日にも専門家のコメントが載せられており、立ち上がる動作や、うなり声などから、クマ類であると推定されるとのことでした。これは穏やかではありません。豊かな山の経験と知識を持つ老猟師伊助でも、「九州にクマがいるはずはない!」と憤っていることでしょう。

 いずれにせよ、今後の確認作業はもちろん、何よりも注意が必要です。

 

 ところで、この「老猿」という本には、書き下ろしの「黒潮」という作品も収められています。

 舞台は日向灘に面した県北の漁師村。腕の良い漁師だった父を戦争で亡くした勉が、幼なじみの綾子に恋心をいだきながら漁に励む。網元の息子、健太郎に綾子との仲を邪魔されそうになりながらもくじけない。嵐の晩、鎖が切れて流された浮き灯台。その明かりが「港はこっちよ」と誘い示すその先は、そびえ立つ馬ケ背の岩壁。そうとも知らずに進む、浜の村人を乗せた船。危ない!あの明かりを消せ!みんなを救え!命がけで荒れ狂う海に出る勉と、帰還兵で鉄砲の名手、岩佐。あーっ、この結末やいかに・・・!?

 これまた素晴らしい作品!もうたまらんです。この本はまず「老猿」があって、そして「黒潮」が続くのですが、この組み合わせ、そしてこの順番が、二つの作品の魅力をそれぞれに高め合い、一冊の本として見事に完成していると言えます。宮崎県はこんな素晴らしい作家を世に送り、こんな素晴らしい作品がある。一県民として、一読者として、嬉しく、そして誇らしくなるような一冊です。

 

 だからと言って、間違っても「宮崎熊物語」などといったノンフィクションが書かれるような事があっては困ります。心配です。今後、より正確な情報収集と、対策が急がれます。

人生はマラソン

 さすがに10月18日の宮崎日々新聞には驚きました。インド系英国人のファウジャ・シンさんという男性が、フルマラソンを8時間25分16秒で完走したというのです。何と百歳!!文句なしの最高齢世界記録です。
 1キロのペースは11分58秒ちょっとという計算になり、これはほとんど歩くようなスピードですが、年齢が100歳となると、そんなことは問題ではありません。若い人でも完走できるとは限らない42.195キロという道のりを、三桁の年齢の人が自分の脚力で移動したというのですから、これはすごい!の一言です。拍手です。
 市民ランナーを対象にしたほとんどのマラソン大会では、各年代ごとで順位が決まり、表彰されるようになっています。そしてその区分は20歳未満、20代、30代、40代、50代と続いたあとは、「60歳以上」とひとくくりにされることがほとんどです。高齢社会におけるマラソン大会を考えるとき、これではいけないと思うのは、私だけでしょうか?70代、80代、でもって90代、そして100歳以上、という区分を設けるべきではないでしょうか。
 今や未曾有のマラソンブーム。若い人達もたくさん走っています。このブームが続けば、マラソン大会も60歳以上のランナーが過半数となるような現象が、近い将来訪れないとも限りません。それだけ健康な高齢者が増えるのは喜ばしいことですが、60代と90代、ましてや100歳が同じカテゴリーで走るのは少々厳しいのではないかと思います。
 むろん、速く走るだけがマラソンではありません。色々な大会や集まりで長年健脚を競い合っているマラソン仲間と、楽しく、健康的にゴールを目指すような大会が増えると、それが生き甲斐になることでしょう。「人生はマラソン」と例えられることもよくありますが、たくさんの人が「マラソンが人生」と胸を張って言えるような時代の到来を待ち焦がれたくなるようなニュースでした。

「朝活」流行っている、らしい。

  1017日付の日経新聞によると、「朝活」が急増しているらしいです。これは、出勤前の早朝に勉強会などに参加して、業種や世代の違う人と交流し、人脈を広げたり、スキルアップにつなげたりする活動とのこと。みんなで朝食を食べながら、政治や経済、スポーツなど、色々なテーマについて発表、議論するらしいです。

 それだけに限らず、学習系、健康系、趣味系、仕事系、情報収集系、奉仕系、など、いろいろな集まりや、活動内容があるようです。なんだか健康的で楽しそうですね。

 バブル全盛期だと、そういうわけにはいかなかったでしょう。特に都市部では、アフターファイブになると食べたり、飲んだり、踊ったり。まさに「酒池肉林」のお祭り騒ぎが連夜繰り返され、帰りはいつもタクシーで午前様。早起きとは無縁の生活という人も少なくなかったのではないでしょうか。

 この「朝活」、若手ビジネスーパーソンの間で広がっているとのことですが、宮崎でも流行っているかどうかは定かではありません。いずれにせよ、早起きはいいことです。もっとも、老健の業務は24時間態勢。早出、遅出、夜勤など、様々な勤務態勢で成り立っていますが、業務に取りかかる前の時間を有効に使う、という事が重要なのではないでしょうか。業務の後だと、予定外の用事が入ったり、疲労困憊になって、せっかくやろうとしていた事ができなくなりかねません。これに対して仕事の前だと、仕事後に比べて、習慣化しやすいように思えます。

 ちょっと前の本ですが、野村正樹さんの書かれた「朝・出勤前90分の奇跡」という著書があります(PHP文庫)。余裕を持って起床することで、数々のメリットがあることが紹介されていました。90分というと、大学の講義一コマ分。けっこうたっぷりあります。秋は色々なことを取り組むのによい季節。出勤前の時間を有効活用してみてはいかがでしょうか。

老齢は山登り

  「老齢は山登りに似ている。登れば登るほど息切れするが、視野はますます広くなる」と言ったのは、映画監督のイングマール・ベイルマンだそうです(出典:斎藤茂太「いい言葉はいい人生をつくりる」、成美文庫)。うべうべしきことです。

 百歳の詩人、柴田トヨさんの詩集がベストセラーになっています。百歳という高い頂から眺めた今の世の中はどう映っているのでしょう。表題作にもなった「くじけないで」という作品の中で詠んでいる、「私 辛いことがあったけど 生きていてよかった」という言葉、ずしーんと来ます。

 老健の利用者様から教わることの中にも、時としてものすごい重量を感じることがあります。いつも早食いをされる方がおられたので、それはなぜか?と調べてみたところ、「兵隊にいた時の食べ方が身に染みついているから。いつ死ぬかわからないので、早く食べなければならなかった。いつも命がけで食べていた」という事がわかりました。食べるという行為は、第一義的に生きるためである、という食の本質をどすーんと再認識させられた出来事でした。

 生きとし生けるものは全て、人生というそれぞれの山を登り続ける宿命です。生きている限り、決して下ることはできない。だからこそ、自分より上を登っている人に、上の天候を聞いたり、危険な場所とその乗り越え方を教えてもらったり、必要な道具や心構えを問うたり、そして何よりも、上から眺めた景色がどれだけ素晴らしいか?たとえ辛いことがあるにせよ、人生という山を登ることが、どれだけ楽しく、魅力に溢れているか?それをお聞かせ願いたいと思いました。

モッタイナイ

  925日、ワンガリ・マータイさんが亡くなられました。2004年のノーベル平和賞受賞者。アフリカ全土で植林活動を行った、ケニア出身の環境保護活動家。特に、「世界に『モッタイナイ(もったいない)』を広めた人」として、日本人には馴染みが深い方だったのではないでしょうか。享年71歳、まだ早いのでは・・・このこと自体、「モッタイナイ」と、残念な気持ちになりました。

 この報道を聞いている時、部屋にあったこんなものが、目に入りました。

 

DSCN1238.jpg(一定の年齢以上の方だと、「あっ!あれだ!!」とわかるのでは?)

 

 

 「オリンパスペンD2」というカメラです。「オリンパスペン」シリーズの中で、Dシリーズは最上位に位置づけられています。発売は1964年、今から47年も前ですが、今でもちゃんと撮ることができる、現役バリバリのカメラです。

 この「ペン」シリーズが世に出たのは1959年。レンズは高性能のものを用いながら、他の部分についてはコストダウンをはかり、安くて小さいのに高性能!と、それはそれは大評判だったそうです。

 

 それはそうと、この「ペン」のどこが「モッタイナイ」と関係あるのか?というと、このカメラの最大の特徴ともいえる、「ハーフサイズ」という構造にあります。これは、フィルム1枚分で写真2枚が撮影できる、というお得な仕組みです。したがって、24枚撮りフィルムなら48枚、36枚だと何と72枚もの写真が撮影できるわけです。このカメラが出た当時、写真は白黒からカラーに変わろうとしていた頃でした。カラーフィルムは高価でしたので、この「ペン」シリーズ、「モッタイナイ」の精神に基づき、フィルムを大事にするカメラだったと言えます。それでも「2倍撮れるから!」と、デジカメみたいに枚数を気にせずじゃんじゃん撮りまくるということはせず、残りの枚数を気にしながら、「ここぞ」というシャッターチャンスに集中していました。ですから、ちょこっと撮ってすぐ現像、ということはもってのほか。最後の一枚まで大事に大事に撮り終えて、それからようやく写真屋に持って行ってたものです。

  

 

DSCN1239.jpg

     (↑フィルムカウンターの目盛りが80枚分まであります!!)

 

 その一方で、「ペン」は電池が不要!今のデジカメみたいに、バッテリーが切れを心配することもありません。特に写真のペンD2は、電池無しで露出を測ることもできた優れもの。自然に優しいカメラでもあったわけです。

 このカメラで、色々な想い出を撮って来られたであろう方々が、老健を利用される時代にさしかかってきました。写真だけでなく、生活の色々な場面で「モッタイナイ」の精神を発揮して来られた人生の先輩方に、その教えを請いたいと思った次第です。マータイさんの訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

お好きな服は?(秋の七草)

  「秋の七草色増すころよ 役者なりゃこそ旅から旅へ・・・」で歌い出すのは、霧島昇さんが歌った名曲、「旅役者の」です。西条八十作詞、古賀政男作曲、というゴールデンコンビによる作品です。この時期になるとついつい口ずさんでしまう一曲です。

 歌い出しに出てくる「秋の七草」とは、女郎花(おみなえし)、薄(すすき)、桔梗(ききょう)、撫子(なでしこ)、藤袴(ふじばかま)、葛(くず)、萩(はぎ)7つ。春の七草だと「せりなずなー、ごぎょうはこべらほとけのざー、すずなすずしろこれぞななくさ」と五七五で覚えやすいし、七草がゆも食べる習慣もあるので、わりと馴染みがあるかと思うのですが、秋の七草は覚えにくいし、馴染みも浅いのではないでしょうか。老健の利用者様に尋ねても、「せりなずなー、・・・」はすぐに出ても、「おみなえしー、・・・」と答えられる方はめったにお目にかかれません。

 ところが、秋の七草の覚え方、ちゃんとあるんです。数年前、テレビの天気予報のコーナーで、気象予報士の方がおっしゃっていました。「『お好きな服は?』と覚えるといいですよ」と。

 つまり、

 お(おみなえし:女郎花)

 す(すすき:薄)

 き(ききょう:桔梗)

 な(なでしこ:撫子)

 ふ(ふじばかま:藤袴)

 く(くず:葛)

 は(はぎ:萩)

というわけです。いかがでしょうか?これなら覚えられそうですか?

 え!?「オリーブ、スイートピー、きんもくせい、なのはな、フリージア、クロッカス、ハイビスカス」になる!?うーん・・・。 

ガス抜き

 「ガス抜き」を広辞苑で調べると「(1)炭鉱などで、ガス爆発の予防のためにガスを取り除くこと。(2)(比喩的に)組織内に鬱積した不満が噴出しないように、解消させること」とあります。日本のあちこちにあった炭鉱も廃坑となってしまった現在においては、(2)の意味で用いられることが多いのではないでしょうか。

会社の帰りに上司が部下に「おい、○○君、今夜帰りに一杯どうだね?」などと誘って、不満を聞いたり、相談に乗ったりするのも、ガス抜きが目的という場合もあったりして・・・。「酒は社会の潤滑油」、「飲みニュケーション」などと言いながら、ついで、つがれて千鳥足・・・。世界を見渡すと、就業時間が過ぎた途端に上司も部下も関係無し。時間外では赤の他人、プライベート干渉すべからず、それではまた明日、ごきげんよう。という割り切ったお国柄のところもある、と聞いたことがあります。それに比べると、この「ガス抜き」、「和」を重んじる日本には不可欠の作業、というか、少し飛躍して文化なのかも?ただし、飲酒運転は絶対にだめです。くれぐれも”飲んだら乗るな”、徹底しましょう。

 前置きが長くなりましたが、そっちの「ガス抜き」じゃなくて、(1)の意味での「ガス抜き」ができないか?と切望するようなニュースが飛び込んできました。1012日付の宮崎日日新聞によると、新燃岳の噴火活動が再び活発化する可能性があるとのこと!

これは、火山噴火予知連絡会が同11日、気象庁で開いた例会の中でまとめられた検討結果だそうです。今は静まったかのように見える新燃岳。しかし、深部からのマグマ供給が続いていて、このままだと、来年2月ごろには、あの爆発的噴火の前の量に戻ると推定されることから、警戒を呼び掛けている、と報じられていました。

とんでもないことです。マグマなんてため込んで欲しくないです。あの爆発、あの振動、そしてあの火山灰や火山弾・・・二度とごめんです。連絡会の発表が間違いであって欲しいと願うばかりです。

もしも百歩も千歩も、いや一万歩譲って発表が正しいとして、「ガス抜き」みたいな事ができないものでしょうか?一気にドカンと爆発するのじゃなくて、少しずつ少しずつ、被害が及ばない程度に「プッ、プッ、プッ」とやれないものでしょうか?新燃岳の横から穴を空けて、マグマをちょこっとずつ抜き出せないものでしょうか?今こそ、本当に今こそ、「どげんかせんといかん!!」という時だと思うのですが、どげんもでけんものなのでしょうか。

 宮崎の美しい空や山や大地や海、そして私たちの住む町、さらに何よりも私たちの心が、再び灰色に埋まってしまうことがないことを心から祈るばかりです。

栄養教室開きます(栄養給食研究部会)

 (社)宮崎県老人保健施設協会栄養・給食研究部会(瀧井 修委員長)は118日(火)10時から14時まで、西都、児湯ブロックの会員施設の役職員や利用者のご家族等を対象に高齢者栄養教室を開きます。会場は西都市の西都市公民館。

 同部会では、事業活動の中で、食事を通して地域の高齢者の在宅支援を行おうと活動しています。今回は農学博士で管理栄養士の潤和リハビリテーション研究所の黒田留美子客員研究員を講師に招き、高齢者ソフト食についての講演や、調理実習を行います。

 今回の教室は西?・児湯ブロックが対象。管内会員施設(菜花園、シルバーケア新富、なでしこ園、並木の里)には開催文書を送付し、案内しています。栄養士、調理師の皆様はもとより、ヘルパーや利用者のご家族様、その他どなたでも、興味のある方は奮ってご参加下さい。なお、食材費として参加費500円をお願いしております。詳しくはこちらをご覧下さい。この件に関する問い合わせは、並木の里の管理栄養士、井上(電話:0983-44-6066)までお願いします。

秋の草一本は春の草千本

  秋の雑草は、一本でも種子が実って冬を越し、春には多くの芽を出して茂るので、秋の除草は大切だ、という、主に東諸県方面で使われていることわざだそうです(出典:「宮崎県のことわざ・格言」鉱脈社)。なるほど、いいこと言っています。

先日、ディスカウントストアで除草剤を、それはそれはびっくりするほど大量に買い込んでいる人を見かけました。「『秋の草一本は春の草千本』だからねー」と言っていた、かどうかは定かではありませんが。

 いずれにせよ、わずかなリスクや兆候を見逃すと、重大な事象を引き起こしかねない、という戒めとして捉えるならば、このことわざは農作業以外にも幅広く通用するのではないでしょうか。老健に勤める者として、春の草千本を嘆く前に、その原因となる一本の雑草を秋の今のうちに抜き取る努力を惜しまないようにしたいと思う今日この頃です。

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