研修会を開きました(栄養・給食研究部会)

DSCN0372.JPG  (社)宮崎県老人保健施設協会栄養・給食部会は27日、宮崎市の宮崎第一ホテルで研修会を開きました。会員施設から39名が出席し、研鑽を積むとともに、忌憚ない意見を出し合い、情報交換をはかりました。

 研修会ではまず、昨年118日、西都市で開催し、好評だった「高齢者栄養教室」の報告を並木の里の井上美鈴さんが行いました。

 次に、「リーダーシップとコーチング」と題し、同部会の委員長である慶穣塾の瀧井修理事長による講演がありました。その中で瀧井理事長は「『名選手必ずしも名将にあらず』と言うように、栄養士として優秀であることと、管理者として優秀であることとは別のこと」と切り出しだしました。メンバーの自律性を促し、力を発揮させるとともに、成長を促進するために、コーチングが重要であると強調しました。また、「リーダーは自分の思いを言葉にして相手に伝える技術が必要である」として、自分の思いとは何かを自分自身が知り、聞き手が理解できる言葉でタイミングよく発していこうと呼びかけました。

 最後に平成24年度の事業計画についての検討や、意見交換が行われました。その中で、次回の「高齢者栄養教室」は県南地区で開催することとし、今後その詳細を詰めていくこととなりました。

 各参加者とも、熱心な態度で受講し、有意義な研修会となりました。

大会参加申し込み明日まで!

 9回社団法人宮崎県老人保健施設協会研究大会(316(())、於:宮崎観光ホテル)の参加申込み締め切りが、明日、215日(水)までとなりました。申し込みがまだお済みでない方や、参加を検討されている方は、こちらをご参照の上、お急ぎお申し込み下さい。

 4月から診療報酬が改定され、地域での医療・介護の連携や、在宅医療の一層の充実がはかられることとなりました。『いまこそ老健、原点回帰! ?利用者の想いを・・・?』と銘打った今回の研究大会で、今後の老健はどうあるべきか?講演や研究発表、そして忌憚の無い意見交換などを通じて探って行きたいと思います。多数の参加をお待ちしています。

介護報酬改定関連研修会を開きます

  4月からの介護報酬改定に伴い、下記の通り研修会を開催します。開催文書は後日各会員施設に送付いたしますのでご参照ください。多数の参加をお待ちしています。

 

 

1.開催日時:平成2433日(土)

      14時から1630分まで(1330分開場)

2.場所:宮崎観光ホテル東館「紅の間」

  宮崎市松山1-1-1

3.内容

 (1)平成24年度介護報酬改定について

 (2)介護(医療)の質マネジメントについて

4.講師:永廣 研二

5.講師略歴

○平成元年6月 医療法人社団大浦会 介護老人保健施設 博寿園に支援相談員として入職。 

○平成154 同施設の施設長として就任。

○平成175 医療法人金澤会 地域医療センター施設サービス部長、兼介護老人保健施設 青翔宛 副施設長として勤務中。
                        
 現在、熊本県老人保健施設協会 総務委員長、全老健 介護保険制度・報酬委員会 委員。

猫脚だにゃあ

  いやあ、すごかったですね。25日に行われた別府大分毎日マラソン。お笑い芸人でカンボジア国籍の猫ひろしさん、もとい!猫ひろし選手2時間3026という、自己ベストを7分も短縮する快走でフィニッシュしました。

実業団選手のレベルとして見れば、大した記録とは言えません。しかし、市民ランナーのそれとしてみれば、驚異的なものです。1キロあたり33391のペースを42.195キロずーっと続けるわけですから。市民ランナーの尊敬と羨望のまなざしを浴びる”サブスリー”、すなわち3時間を切る人でさえ、全市民ランナーの1%程度しかいないのに(これは1キロ415秒ペースです)、それより30分近く早いタイムだにゃあ、です。

テレビで観戦した猫選手の姿は、周囲の選手よりもひときわ小さいのですが、そのフォームは何とも綺麗で、ダイナミックでした。しかも沿道で応援する人達に手を振って、「ニャー、ニャー」と鳴きながら(?)のスマイルラン。さすが芸人!これは実業団選手にはできる芸当ではありません。もっとも、本業の「お笑い芸」がおもしろいか否かは別問題ですが(^_^;)・・・。

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 さてさて、突然ですが、写真は和室用のテーブル。すなわち「座卓(ざたく)」です。どうして急にこんな話をするのかって?実は猫ひろし選手と深―い関係があるのです。この座卓の脚の部分にご注目下さい。

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 ここの名前、ご存知でしょうか?案外知られていないかもしれないこの座卓の脚の名前は何かと申しますと・・・・・ドロドロドロドロドロドロ(ドラムロールの音です)・・・ずばり、「猫脚」だにゃあ!”ねこあし”と読みます。広辞苑をひもとくと、「(1)膳や机の脚の形状の一。上がふくらみ、中がややすぼまり、下が円くて低く、猫の脚に似たもの」とあります。いかがでしょうか?何となく猫の脚に見えてこないでしょうか?えっ?ミッキーロークのパンチに見える!?((+_+))このほか、「(2)猫のように足音を立てないで歩くこと」という意味も併記してあります。

 しかし!!この『広辞苑』でさえも、あの猫選手の激走を目の当たりにした今、加筆を余儀なくされるかもしれません。すなわち、「(3)お笑い芸人、猫ひろしが”ニャー、ニャー”と鳴き、周囲に手を振りながらフルマラソンを疾走する様子およびその脚力。(4)小さくても大きく元気で楽しい走りで、人々に希望と感動を与える様子」と。

 果たして広辞苑の「猫脚」の記載が変わるか否か!?それは猫選手がカンボジア選手とてロンドンオリンピックに出場するかどうかにかかっている・・・かにゃあ?それはともかく、今後の同国の選手選考の成り行きに注目したいです。

はるはなのみの

  「はるはなのみのかぜのさむさや」で始まるのは『早春賦』(大正2年、吉丸一昌作詞、中田 章作曲)。老健の利用者様なら、大半がご存じと思います。昭和の頃の音楽の教科書までは載っていた名曲です。

 ずっと昔の事ですが、「この『早春賦』の歌いだしの『はるはなのみのかぜのさむさや』とは、どういう意味なのか?」とちょっとした言い争いになったことがあります。ある人が「”春、花の実の、風の寒さや“じゃないのか?」と言い出したのです。「一体、何の花の実じゃろか??」と。すると、別な人が反論したのです。「違うが!”春はナァ、ノミのォ、風の寒さやァ“じゃないかと思うとよ」と。たしかに、ノミにとって寒風はさぞかしこたえることでしょうけど・・・(-_-;)。もちろん正しくは、「春は、名のみの、風の、寒さや」。文語調の歌詞は、漢字もままならぬ子供たちにとって、しばしば誤解と論争のタネとなっていました。しかしながら、この歌詞は推敲(すいこう)を重ね、一つ一つの言葉を織り上げて、春にはまだ早い里の風景を実に美しく描いている、と今になってしみじみと胸を打たれる思いです。

「立春が過ぎて、暦の上は春ということになっているのだが、それは全く名ばかりのことで、吹き付ける冷たい北風が身に染みることだよ。谷間に住むウグイス達も、あの”ホーホケキョ”という美声を山里に響き渡らせたくてうずうずしているのだろうが、『こんなに寒かったらまだ出番じゃないようだね』と声も立てずにじっとしているよ」というのが1番の歌詞の意味でしょうか。だけど、こんなにぐちぐちと言うよりも、「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思えど 時にあらずと声も立てず 時にあらずと 声も立てず」と言葉を整え、8分の6拍子のメロディーに乗せた方が、心にスーッとしみてきます。吉丸一昌という詩人、そして、中田章という作曲家、素晴らしい日本の歌をこの世に残してくれた、とありがたい気持ちで一杯です。

この『早春賦』、2番になると「こおりとけさりあしはつのぐむ」(冬の間張っていた氷がすっかり融解し、”葦”という植物が角のように芽を出して来たことだよ)、さらに「さては時ぞと思うあやにく」(さあ、いよいよ芽吹きの時を迎えた、と思ったものの残念なことに)と続きます。「”“がどうしたというのか?」だとか、「”あや肉“とはどんな肉か」と、やはり疑問に思いはしたのですが、子供の頃にはとにかく耳で覚えたままに、「あしはつのぐむー」とか、「おもうあやにくー」とやっていました。

 一方、今のヒットソングの歌詞は、ほとんど全てが口語体。言文一致運動を進めた二葉亭四迷が、もし時代を超えて今にやって来て、現代の「名曲」を聴いたらどう思うだろうか、「あの頃の未来に、僕らは立っているのかなー♪」と口ずさむだろうか、と興味あるところです。それはともかく、『早春賦』に見られるような文語体による歌は、わかりにくい部分があるかもしれないけれども、それが理解できるようになると、却ってその素晴らしさがわかるのではないか?と考えます。

 立春が過ぎ、暦の上では春なのですが、相変わらず寒い日が続いています。「春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かるる胸の思いを いかにせよとのこの頃か いかにせよとのこの頃か」(もし「暦の上は春になっている」という情報を耳にしなかったら、心がときめくこともなかったろうに、それを聞いてしまったものだから、本当の春の訪れが心待ちでならなくなってしまったよ。ああ、この抑えられない胸躍る気持ちを一体どうしたらいいというのだろうか)と、『早春賦』を歌いながら、この名曲の素晴らしさを堪能するとともに、暖かい春の日差しが注ぎ始める始める日の訪れを待ちたいと思います。

「貰っといてやる」の真骨頂

  21日の朝日新聞文化欄は、このたび芥川賞を受賞された、田中慎弥さんの記事でした。「喜ぶ前に周囲にさらわれ 流された」という見出しがありました。候補に上がること5回目での栄誉でしたが、嬉しいというよりも、半ば不機嫌で記者会見に臨み、あの芥川賞を「もらっといてやる」と公言。周囲の関心を独り占めしていました。この発言部分、さすがにNHKのニュースでは、最初のうちカットされていました。

 この発言や、一風変わった(?)ライフスタイルから、作品そのものではなく、作家である田中さんの人物像ばかりにスポットが当たることとなり、少なからぬ違和感を抱いていた矢先に、今回の記事。「新聞やテレビの取材というのはどうして作品ではなく作家個人のことを訊きたがるのだろう」との記述があり、田中さんご自身もやっぱりそう思っておられたんだなあ、と納得しました。

 この記事で感銘を受けたのは、田中さんが「作家人生を芥川賞で終わらせたくない」と述べていたところです。この文の直前には、「見も知らない人からよかったですねと言われるよりは、どこかにいる目の肥えた読者から作品の不備を指摘されることの方が、私にとっては重要だ」。すごい!こんな発言、とても真似できません。だけど、これが田中さんの偽らざる気持ちなのだと思います。本人がそう願わずとも、「芥川賞作家の」という定冠詞は、この先ずっとついて回る。「先生」とあがめ奉られる。その事で慢心したくないという気持ち、そして往年の大文豪、二葉亭四迷と志を異にし、「文学は男子一生の仕事なり」と、これからもずーっと書き続けて行きたいという気持ちの表れなのでしょうか。スポーツの世界では、頂点を極めた後、心にぽっかりと穴が開いて、やる気が萎えてしまう「燃え尽き症候群」が言われていますが、田中さんのこの言葉を聞くと、読書好きにとっては「よくぞ言ってくださった!」と拍手喝采したい思いです。

 ところで、芥川龍之介を記念し、昭和10年から始まったこの芥川賞ですが、もしも龍之介があの世から「河童」の神様を従えて現世にやって来て、「これこれ田中君とやら。お前に吾輩の名を冠した”芥川賞”を授けようと思うのだが、果たしてお前にこの賞を受けとる意思はあるや?」と訪ねたらどうなるだろう?と、この受賞インタビューを見ながら思いました。これに対して、「(候補に上がるのは)今回が5回目ですから、断るのが礼儀なのでしょうが、私は礼儀を知らないので、もらっといてやる」と答えたとすれば、龍之介は「ほほぉーっ、こいつは愉快痛快!まるで吾輩のような奴が出てきたぞ。平成の文学界は面白くなりそうだ!」と大喜びして、河童の神様とハイタッチをするのではないか、と想像して楽しくなってしまいました。

 記事の最後は「もし芥川賞を私がもらうことに少なからず興味を持つ人がいるなら、大変偉そうだが私の過去の作品も読んでほしい。いや、(中略)文学史に残る大作家の名作を読み、改めて田中の作品に戻り、私の水準が低いことを確認するといい。そんなめんどううなこと、誰もやらないか」と締めくくってありました。いえいえ、誰もやらないはずはありません。私を含め、きっと多くの人がそれをやることと思います。中には「読んでおいてやる」などとのたまう強者もいるかも。ただし、「水準が低い」と思う人がいるかどうかははなはだ疑問ですが・・・。いずれにせよ、本を読む楽しみがまた一つ増えました。

「なんでも」ということ

「子どもを不幸にする一番確実な方法はなにか。なんでも手に入れられるようにしてやることだ」と言ったのはフランスの思想家ルソーだそうです(『いい言葉は、いい人生をつくる』斉藤茂太著、成美文庫)。

 18世紀を生きたルソーが、まさか21世紀の日本にタイムマシーンでやって来て、モノにあふれかえっている様子を垣間見て、「オーッ!ジャポーンの子どもたちはこれじゃあ不幸になってしまいますことネ」と心配して、この言葉を遺したわけではないのでしょうが、現代の日本の暮らしは、本当に便利になりました。

たとえば通信。その昔、そのまた昔、もっと昔。新聞社では「伝書鳩」が飼われていた事がありました。通信手段が無い現場から、記者が書いた原稿を届けるためです。優れた帰巣本能を利用して、脚にはめた小さな筒に入れた原稿を、新聞社までポッポと飛んで届けていたのでした。戦時中にも活躍した伝書鳩。すごいやつです。偉い!!

それが今ではスマホでポーン、です。写真も動画も音楽も、お金だって指一本でなんでも即座にポーン、です。こっちもすごいです。偉い!だけど、スマホを忘れて家を出たらお手上げです。落としでもしたら一大事です。通信障害なんぞ発生したらパニックです。すごく便利なものは、すごく不便な事態を容易に引き起こしかねないという側面をはらんでいるわけです。

子どもの遊びも変わりました。伝書鳩がポッポと活躍していた頃、男の子の遊びの必需品と言えば、「肥後守」。”ひごのかみ”と読みます。”ひごまもる”ではありません。広辞苑にもちゃんと「小刀の一種。折込式で柄も鉄製、「肥後守」と銘を入れる」と明記されている、由緒あるアイテムです。これ一本で豆鉄砲を作ったり、弓矢を作ったり、秘密基地を作ったり、と色んな遊び道具をクリエイトしていました。教えたり、教えられたりしながら。それらを使ってやる遊びもこれまた手作り。友達同士でルールを決め合って、それに従って遊んでいたのです。学校にも普通に持っていって、休み時間に鉛筆を削っていました。肥後守一本で、いろんな夢や想い出を作り上げてきたわけです。もちろん、今の時代に、肥後守をポケットに入れて持ち歩いていたら、大変なことになりますが・・・。

これに対して、今はゼロから遊びを創造し、その過程をも楽しむというのではなく、高度に創造され、完成された遊びを楽しむという側面が強くなっているように思います。遊びに限らず、様々なものが、なんでも簡単に(ただし、お金は要ります)手に入るようになった今日ですが、冒頭のルソーの言葉が、ふと頭をよぎった次第です。この時代の先に、どんな未来が待っているのだろうか?と。

さて、自立支援型介護、すなわちリハビリテーション介護を旨とする老健施設において、「あるがままの介護」、換言すれば、「なんでもしてあげる介護」が、利用者のためにならないことはご周知の通りです。その点において、ルソーの言葉を借りれば、「高齢者を不幸にする一番確実な方法はなにか。なんでも介護してやることだ」とは言えないでしょうか。「なんでもしてあげる介護」は、精神機能、身体機能ともに低下の一途をたどる危険性を内包しています。できることは自分でしてもらいながら、できないところは手助けする。また、工夫することにより自分でできるのであれば、その工夫をすることが大事です。また、できないのであれば、なぜできないのか?その原因を多角的な視点から探っていく事が重要であり、そのためにも、他職種によるチームアプローチが不可欠となってきます。

なんでもないような「なんでも」という言葉。しかし実際は決してなんでもなくはないんじゃないかなあ、と思った次第です。

幸せってなんだっけ?

  ”幸せって何だっけ?何だっけ?“というCMソングが以前ありました。明石家さんまさんが歌って踊って、調味料を宣伝していたやつです。そのCMにおいて、幸せとは、「その調味料が家庭にあること」と帰結していました。そりゃそうだ。CMですから。それにしてもこのCMとCMソング、流行りましたね。子供も大人も”しあわせぇーってなんだあっけなんだあっけ・・・”とツイスト(?)を踊りながらやってました。

 

 しかし、改めて「“幸せ”って何だろう?」と考えさせられてしまう記事がありました。120日の日本経済新聞の「経済教室」のコーナーです。「急がれる幸福度の指標整備:生活の質・持続可能性重視」と題したその記事の中で、経済協力開発機構(OECD)事務次長の玉木林太郎さんが、日本における幸福度について「客観的な指標は良いにもかかわらず、主観的な満足度が低い」と指摘していたのです。

 これによると、経済システムの機能にとどまらず、人々の生活水準に関心を寄せてきたOECDは、人々の幸福度やその向上を測定することを最優先課題に位置づけているのだそうです。それは、国内総生産(GDP)を代表とするマクロ経済統計だけでは、人々の社会経済状況の理解が困難だからであり、これを補完するためには、統計を整備し、人々の生活と直接関係を持つ指標が必要であるとのこと。そのためにOECD(1)生活の物資的な状況、(2)生活の質、(3)持続可能性といった相互の関連する3つの領域を検討対象とした分析の枠組みを作成した、とありました。

 このようにして幸福度の指標を整備する上での留意点の一つとして、玉木さんは「幸福度の客観的および主観的側面の双方を対象として考察する」ということをあげていました。それは、客観的構成要素は、人々の生活状況や生活の質を評価する場合に、そして主観的構成要素は、人々の心理的側面をとらえるためにそれぞれ重要だからだそうです。

 ところが、このような視点から日本における幸福度を見ると、所得、雇用、教育、健康など、客観的な指標においては、OECD平均を満たすか、これを超えるのに対し、主観的な満足度として、「全体として生活に満足しているか」と問われ、「満足している」と答える日本人は40%しかおらず、59%であるOECD平均を大きく下回る結果が出ているのだそうです。

 この原因として玉木さんは、「ゆとりの欠如や格差の拡大、人々の孤立や将来不安などが、主観的な満足度を引き下げている可能性がある」として、こうした点の解明や、問題点の改善が重要な政策課題になるであろう、と提起していました。

 

 それで、冒頭の”幸せって何だっけ?何だっけ?”というCMソングが頭の中で流れ始めたわけです。私たち老健に勤める者は、日常の仕事の中で、「生活の質」という言葉を少なからず用いますが、果たして「生活の質」とは、そして「幸せ」とは一体何でしょうか???つまり、私たち側が「利用者の〇〇さんにはこういうケアを行ったら、生きがいのある、幸せな生活が送れるだろう」と思って、それを実際に行ったとしても、肝心の〇〇さんが、「ああ、こういうケアをしてもらって、私は生きがいのある、幸せな生活を送ることができているなあ」と思われるかどうか?ということです。その客観的幸福度と、主観的幸福度の間に隔たりがあるとすれば、その原因を解明し、問題点を改善して、ケアのありかたを見直さなければならない、ということになります。

 調味料を買ってくれば済む問題ではありません。今後、幸福度の指標がどのように整備されていくか、関心を持って見守るとともに、私たち自身も「生活の質とは?」「幸せとは?」ということを常に問い続けながら、主客が高いレベルで一致するようなケアを目指していきたいと、この記事を読んで思いました。

冬ジゴロ?

  ”ふゆじごろ“という言葉があります。ありますが、あの広辞苑には、ありません。”ジゴロ“というフランス語だったら「女にたかって生活する男。転じて、男妾。ひも」と載っています。寒くない季節だったら何とか頑張れるけど、寒い冬になったら女性のもとに泣きついていく頼りない男のことでしょうか?うーん、当たらずといえども遠からず、かなあ・・・!?

なぜ広辞苑に載っていないのか?それは、「ふゆじごろ」が宮崎の方言だからです。したがって、『新宮崎市方言辞典』(江南書房)にはちゃーんと載っているのです。この「ふゆじごろ」の意味とは、その意味とは・・・ドロドロドロドロドロドロ(ドラムロールの音のつもりです(^_^;)

 そうです。「寒がりや」という意味です。もったいぶって言うまでもないですね。あと、「不精者」という意味合いもあるそうです。日照時間、快晴日数ともに全国トップクラスの宮崎といえども、寒いときゃあ寒いんです。布団から出たくない朝だってあるんです。そんなときに、「んだまあ、わりゃあなんちゅうふゆじごろじゃろか!はよおけにゃめしゃねなっど!!」(まあこれは驚いたことだよ、あなたは何と言う寒がりやなのでしょうか!早く起床しなければ食事が無くなってしまいますよ!!)と、たたき起こされたことはないでしょうか。

老健を利用されている利用者の皆さんなら、「ふゆじごろ」という言葉をご存知の方も多いと思います。しかし、実際に「ふゆじごろ」だったという方は少ないのではないでしょうか。「1日も休まんで、朝から晩まで一生懸命しごつ(=仕事)したつよ。夏でん冬でん関係あろか」と笑って話されるのをよく耳にしますが、今の日本があるのは、人生の大先輩であるこれらの方々のご尽力のたまものと、感謝と畏敬の念にたえません。そう思うと、「じゃつよな(=そうだよなあ)!俺もこうしちゃおれん、ふゆじごろじゃいかん!!」と布団を蹴り飛ばして起き上がります。皆さんもレッツ「ふゆじごろ“」!!

ところで、そんな宮崎にあって、冬夏関係無く、一年中ずーっと寒いところがあるのをご存知でしょうか?冷凍庫の中とか、「俺の財布の中身か!?」とか、そんなんじゃあありません。今をさかのぼること12年前、今年と同じ辰年のことでした。「一年中寒い」その場所に世界各国の外相が一堂に会し、熱い議論を交わしたのです。熱い議論を交わしてもなお寒かったというその場所とは、その場所とは・・・ドロドロドロドロドロドロ(-_-;)

 そうです。「ワールドコンベンションセンター・さみっと(≒寒ぃっと)」・・・?(-o-)/うわぁー、やっちゃったー!もちろん正しくは「サミット(summit」です。ご周知の通り、「さみぃ」も「寒い」という意味の宮崎の方言です。「明日は寒いのだそうですよ」は「明日はさみっとよ」と表現します(´・ω・`)。はぁー、さみぃさみぃ。

無骨

 NHK大河ドラマ「平清盛」が始まりました。その影像の「美しさ」、あるいは「美しくなさ」についてはすったもんだがあったのは周知の通りですが、松山ケンイチ扮する主人公、清盛を見ていて思わず「”無骨“だなあ」と思ったのでした。不作法、無風流、そして骨太・・・・・ん!?

 「骨が無い」と書く「無骨(ぶこつ)」が、なんで「骨が太い」と書く「骨太(ほねぶと)」に結びつくんだろう?骨が無かったらクニャクニャじゃん!?普段何気なく使っている言葉なのに、妙な違和感が湧いてきました。「こいつ、なかなか骨があるわい」とは言うけれど、「こいつ、なかなか骨がないわい」とは言いませんよね。

 そこで、『知ってるようで知らない日本語』(柴田武、ごま書房)を調べてみると、ありました。「無骨」には同義の和語である「こちなし」に漢字を当てて、それを音読みして生まれた言葉なのだそうです。

この「こちなし」を更に『詳解古語辞典』(佐藤定義編、明治書院)で調べると「こちなし【骨こちなし】:美的に洗練されていない、無風流だ。無骨だ」とありました。だから、”骨のある無骨な男“というと一見矛盾しているが、意味の上では矛盾しないとのこと。うーん、納得。

これとは少し違いますが、ちょっと失敗をやらかしたりした時など、思わず「あいた、しまった!」と口にすることがあります。これなんかも「こらこら!!それは開いたのか?それとも閉まったのか?どっちなんだ??」と突っ込まれそうですね。日本語って、奥が深いなあ。

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