雑談

気になった題字下

  新聞の題字下というのは、地方版のページの右上、宮崎日日新聞なら「きりしま」、「日南・串間」などのタイトル(題字)の下にあるコーナーで、管内の小ネタや、記者やデスクの雑感が書いてあります。紙面の中ではそんなに比重が大きいというわけではなく、読み流せばそれで終わり、という内容も多いわけです。

 しかし、1112日の同紙県央版の題字下、「鬼の洗濯岩」は聞き捨てならない、ならぬ、読み捨てならない内容でした。記者が病院にかかったところ、手当てしてくれた看護師が、ほかの看護師と雑談しながらだったので「少しがっくりきた」とのこと。これを踏まえて、「その世界での仕事経験が長くなるほど『一般の感覚』からずれていく」と指摘していたのです。

 店員が客と接し、教師が生徒と接するように、老健に勤める者が高齢者と接することは、すべからく当たり前な当然の必須事項です。しかし、当たり前だからこそ、その中で「『一般の感覚』からずれて」いってはいないでしょうか。利用者という「人」を、「物」みたいに機械的に扱ってはいないでしょうか。また、ある施設での常識が、他の施設から見ると非常識であったりすることはないでしょうか?「ない!!」と断言できるでしょうか。全国各都道府県の、他からみればびっくり仰天するような食事や言葉、習慣などを紹介するテレビ番組が人気を呼んでいますが、それとこれとは話が別です。この題字下を読んで、今一度初心に立ち返り、自らの言動を見直そうと思いました。 

 (社)宮崎県老人保健施設協会にはさまざまな研究部会があり、会員施設を対象にした研修会や勉強会を開催し、各々の資質の向上のみならず、情報の交換を行っています。さらに、協会の年間最大の行事とも言うべき研究大会を毎年開催し、各施設での優れた取り組みについて発表するとともに、活発な質疑応答をする中で、相互交流と自己研鑽をはかる場となっています。開催にあたっては、各会員施設宛てにファックスで通知するほか、当ホームページ上でも随時お知らせしていきますので、奮ってご参加下さい。

リンカーンの生きがい

 「僕もこうして人間に生まれてきたんだから、やはり、何か、生きがいが感じられるまで生きている義務がある」と述べたのは、アメリカ合衆国第16代大統領、A.リンカーンです(『生きる勇気がわく言葉』夏村波夫、雄鶏社)。

 奴隷解放を宣言し、「人民の人民による人民のための政治」という、民主主義の理念を唱えたリンカーン。不幸にも観劇中に凶弾に倒れたことを小学校の頃、図書室の児童書で読みました。やり遂げた功績は偉大ですが、リンカーン自身、彼の言うところの「生きがいが感じられるまで生きている義務」を果たしたのか?あまりにも唐突な、そして不本意な亡くなり方だったため、それを確かめるよしもありません。

 しかし、リンカーンが残したこの言葉は、私たちに老健に勤める者にとっても貴重な教訓だと言えるでしょう。広辞苑で調べると「生きるはりあい。生きていてよかったと思えるようなこと」とある「生きがい」。リンカーンの言葉に代入すれば、「”生きていてよかったと思えるまで”生きている義務がある」ということになります。「権利」ではなく「義務」だと言い表したところに、リンカーンのこの言葉の重さはあるように感じます。

 「生きがい」と簡単に言いはすれども、利用者に生きがいを持って暮らしてもらうために、そして生きている義務を果たしてもらうために、私たちのすべきことは簡単では無いのだ、と思い知らされる、そんな言葉だと思います。

なりちゅう

 「なりちゅう」と言ってもネズミの一種ではありません。中学校の愛称でもありません(これは実際にあるかもしれませんけど・・・)。「今後の成り行きが注目されます」で締めくくる新聞やテレビのニュース原稿を「なりちゅうもの」「なりちゅう記事」「なりちゅうネタ」などと言います。もっとも、その報道機関が、そのニュースについて、その後を本当に注目していくかどうかは定かではありませんが・・・。

 しかし、これは正真正銘の「なりちゅう」です。ついに日本が貿易やサービスの自由化を図る環太平洋連携協定(TPP)交渉参加に向けて、関係国との協議に入ることになりました。シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイ、米国、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの9カ国で交渉中の自由貿易協定(FTA)で、これらの国の間では、色々なもの貿易が、関税なしで、自由にできるようになるのだそうです。

 このTPP参加については賛否両論の立場から、与党内でも激論が交わされています。特に農業を基幹産業とする宮崎県においては、少なからぬ影響が出るものと報じられています。また、農業だけでなく、医療分野をはじめ、私たちの暮らしを取り巻く多くのことについて変化がもたらされるのではないか、とも。

 良い影響、良くない影響、色々あると思いますが、これは本当に「なりちゅう」です。宮崎が、そして日本がどう変わって行くのか?今後の成り行きが注目されます。

 そして、今の日本を築き上げてきた人達──もちろん、今老健を利用されている方達も含まれます──が、これから変わりゆくであろう日本や郷土の姿を見て、どう感じられるか?それについても「なりちゅう」です。温故知新。時には「こうしたらいいんじゃないか?」と助言や知恵を頂きながら、次の世代の人達にとって、暮らしやすい日本、そして宮崎になっていくとよいと思います。

1が6つ並ぶ日

 今日は20111111日。なんと16つも並ぶというすごい日です。これにちなんで、きっといろんなイベントも催されることだと思います。さらに、本日の午前と午後、2度訪れる、20111111111111秒となると、112個も並んでしまいます。その瞬間、ぴょんとジャンプして、「オレ、その瞬間、地球におらんかったっつよ」と古典的なギャグを披露する人もいたりするのではないでしょうか。

1111日は毎年来ますが、次に15つ以上並ぶのはいつか?と思ったら、2111年、11日。続いて2111111日、2111111日ときて、21111111日になると、17つ並びますが、なんと百年先の話。それを思うと、いかに今日という日が奇跡的(?)な日か、と考えさせられてしまいます。

「一の今日は、二の明日にまさる」とは、フランクリンの言葉だそうです(『リーダーシップ名言集』、鎌田 勝、三笠書房)。今日やるべきことを明日に延ばすな、要するに、Don’t put off till tomorrow what you can do today.ということです。1がずらーりと並んだこの記念すべき日に、つまり、「二の明日」になるその前に、この言葉の重さを噛みしめながら過ごしたいと思います。

おっと、大事なことを失念していました。今日、1111日は介護の日「いい日、いい日、毎日、あったか介護ありがとう」という気持ちをこの日に掛け合わせているのだそうですが、個人的には金八先生の「いいですかぁー、みなさん。人という字はぁ、ひと(1)とひと(1)とがぁ支え合って生きているんです」という、あれを連想してしまいます。先述の通り、毎年やってきます。老健に勤める者の一人として、日頃の介護のあり方を振り返り、新たな気持ちで第一歩を踏み出すための日にしたいと思います。

老後をロボットに託すのか? 否!

  112日の朝日新聞に、「トヨタ発 介護・医療ロボ」という記事があったのを読まれた方も多いかと思います。体の不自由な人や高齢者の自立歩行をたすけたり、ベッドから人を持ち上げて、トイレに移動させたりするロボットを、2013年以降に実用化するのだそうです。同日付の各紙に同じ記事が載っていましたので、それだけ皆の関心も高いことがうかがえます。

 価格は未定とのことですが、これが実用化されれば、私たち老健に務める者の仕事は減るのでしょうか?あるいは、私たちの仕事そのものが、ロボットに取って代わられるのでしょうか?食事介助ロボット、入浴介助ロボット、排泄介助ロボット・・・。日本人の老後はロボットが見ることになるのでしょうか?そうではないと思います。

 「やさしい言葉は、たとえ簡単な言葉でも、ずっとずっと心にこだまする」とは、マザー・テレサの言葉です(『いい言葉は、いい人生をつくる』、斎藤茂太、成美文庫より)。そしてその言葉とは、機械が発するものではなく、生身の人間が、心を込めて語りかけることで、相手の心の中で共鳴し、残響し続けるものなのではないでしょうか。

 未来。ある一人暮らしの男の部屋。彼に限らず、人々の身の回りの世話は全てロボットがやってくれる時代。いつもの朝と同じように、身体を起こし、顔を洗い、髭を剃り、着替えをし、朝食を食べさせ、歯を磨く。全ての動作をロボットが「機械的」に話しかけながら淡々とこなしていく。彼が死んでいるとも気付かずに・・・。そのような内容のショート・ショートを、星新一さんが書かれていました(タイトルは忘れてしました。ずーっと前の作品です)。

 そんな未来を、そんな老後を望む人は果たしてどのくらいいるでしょうか。重要なのは、ロボットをいかに有効に使うか、ということです。ロボットを活用することで、人間の負担や疲労、そして危険を軽減する一方で、人間は心を込めた介護に専念する。それにより、人間は人間らしく、心豊かな生活を送ることができるのではないでしょうか。そういう時代が到来したとき、今以上に介護の本質が問われるようになるのではないか、と思ったニュースでした。

秋入梅(あきついり:秋黴雨)

  先週に引き続き、またもや週末は雨でした。県内各地で様々なイベントが催されたのですが、内容変更を余儀なくされたところもあったようです。テレビのニュースで「天候の良いこの時期を選んで開いたのですが・・・」と主催者が残念がっていたのが放送され、聞いている方も残念な気持ちになりました。それにしてもすっきりしない天気が続きました。秋の長雨。また、その季節に入ることを「秋入梅(あきついり)」といいます(「広辞苑」)

 「雨の降る日は天気が悪い」とは、当然すぎるほど当然のことをわざわざ事新しく言うことわざです(「暮らしの中のことわざ辞典」、集英社)。まさにこういう場合にこれを言われてしまうと、駄目を押されたようで滅入ってしまいます。シトシトピッチャン、シトピッチャンな気分です(「子連れ狼」の主題歌)。

 週が明けて、久々にお日様を拝むことができました。宮崎はやっぱりこれでなくっちゃあ!気分を入れ替えて、スキッと行きましょう!果たして次なる週末の空模様はどうなりますやら・・・。

沈没船みつかる!

 「海狼伝」は白石一郎さんが書かれた海洋冒険時代小説の最高傑作。昭和62年、直木賞受賞作品です。

 時は戦国時代末期織。対馬の漁村で小舟を操り、海女を漁場まで送る「後押し」をしながら暮らしていた、18歳の笛太郎少年。あだなは「大将」。船と海への強い憧れを持つ──。

 そんな笛太郎が海賊の一味となり、やがて海のウルフとなって成長し、遙かなる海へと旅だっていく様を描いたスケールの大きい一冊です。この作品のすごいところは、海や船に関する描写の緻密さ。それも和船、ジャンク(中国船)、そして南蛮船という、それぞれ特徴のある船の構造やその操舵法などを、あたかもその時代に行ってきて、実物を目の当たりにしながらペンを走らせたんじゃないか!?と思うほどのリアルさで書き表しています。

 また、海賊といいながら、正義感に溢れる笛太郎。海中に溺れ行く敵を、何の迷いも無く自船に救い上げてやるなど、少しも悪者っぽくありません。むしろ正義の味方。天正の笛太郎を、平成で言うなら「ワンピース」のルフィー、はたまた「パイレーツオブカリビアン」のキャプテンジャックスパロー。昭和で言うならキャプテンハーロックのような存在と言えるでしょう。ぜひご一読あれ。

 そんな笛太郎も、きっと仰天して、愛船「黄金丸」の船べりから落っこちそうになるようなニュースが、1025日の宮崎日日新聞に載っていました。鎌倉時代に来襲した元寇の沈没船といられる船体が、長崎県松浦市の鷹島沖で見つかったのだそうです。しかも、船の構造が分かる状態での発見は国内で初めてとのことで、元寇の実態解明につながる、重要な手がかりになりそうだ、とも。そしてそして、これが本当に元寇のものであるならば、笛太郎が希望という名の帆に順風を一杯に受け、船を走らせていた時代から、さらに300年も前の船ということになります。しかも、場所も同じ。つまり、黄金丸が波かき分けて進む海原の底、はるか深く暗い所で、この元寇沈没船はひっそりと深い眠りについていたということになります。

 現代からさかのぼると、実に700年以上昔の船です。これはもうロマンです。著者の白石一郎さんは、「海狼伝」を書くにあたり、資料集めや現地調査に膨大な時間を割いたのだそうです。しかし、笛太郎の活躍と成長を、海底から見上げていた元寇船がいたことは、果たしてご存知だったでしょうか。残念ながら2004920日、黄泉路への航海に旅立たれた白石さん。ひょっとして今頃、「まさか、それは本当か!?」あるいは「やっぱりあったか!」などと言いながら、舵取りを誰かに任せ、再び原稿用紙に向かわれているんじゃないのかなあ、などと想像してしまったビックリニュースでした。

文化の日

  今日は文化の日。県内各地でも、それにちなんだ催しが、色々と開かれているかと思います。もっとも、老健に勤める皆様におかれましては、祭日とは関係なく、仕事に励まれている方も多いかと思います。

 はて、「文化」とは何ぞなもし?と思って広辞苑で調べてみると、「(1)文徳で民を教化すること。(2)世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。(3)(culture) 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、文明と区別する。⇔自然」・・・とあります。ここで気になるのが「文化」と「文明」の違いです。

 これも広辞苑をひいてみました。「(1)文教が進んで人知の明らかなこと。「―の世」(2)(civilization) 都市化。():生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等などの原則が認められている社会、すなわち近代社会の状態。⇔蒙昧・野蛮。():宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の技術的・物質的所産」・・・とあります。つまり、精神的なものが文化、物質的なものが文明ですか、ふーむ。

 そこまで調べて思い出したのが、ウン十年前、英単語の参考書(「試験に出る英単語」だったと思うのですが、定かではありません)に”文化(culture)”と”文明(civilization)”の違いについて、だいたい次のような内容のことが記されていました(たぶん。間違っていたらゴメンナサイ)。

         「文化は文明を破壊する(ことがある)」

 英単語の参考書ですから、単語と意味さえ覚えればいいのですが、何だか哲学的な響きがして、私にはこの1文が長い間ずーっと気になっていました。

 しかし、その言わんとするところが、わかったような気がしたのが、宮崎駿監督の代表作品とも言える「天空の城ラピュタ」です。「空を飛びたい。重力にあらがい、天空を支配して、世界を掌中に収めたい」という人間の欲望が飛行石を生み出し、そしてその欲望ゆえにラピュタは滅んでしまったのでした。ラストで飛行石の巨大な結晶が、人間の欲望の呪縛から解き放たれ、空高く、というか無限に広がる宇宙空間へ向けて、上昇し続けていくのですが、そのシーンをみて、「”文化が文明を破壊する”って、こういうことなのかなあ」と悟ったのでした。

 「文化の日」はあっても、「文明の日」はありません。物質が巷に溢れる世の中ですが、大事なのは人の精神、心だということを忘れてはいけません。携帯を家に忘れて出てきてしまって、一日中携帯が気になってしょうがなく、落ち着かずに過ごしたことはないでしょうか。人が物を支配することはあっても、物が人に支配されるようになってはいけません。そのことを「文化の日」に再確認しなさい、と設けられた祭日なのかなあ、と考えてしまった113日です。ちなみに大安。ハッピーなことがあるといいですね。

御御御付

  「御御御付」と書いて「おみおつけ」と読みます。「味噌汁」をていねいに表現した言葉です。このように、同じ漢字が3回連続する名詞はめったにないです。ついでながら、この「めったにない」を博多弁で言うと「なかなかなか」となります。

 さて、宮崎ではこの「御御御付」、つまり味噌汁を、高齢者が「味噌おつゆ」と言われるのをよく耳にします。よい響きですね。広辞苑をひくと、「汁(しる)」は、(1)物体からしみ出る液。または搾り取った液。 (2)調理用の液。出し汁。煮汁。つゆ。(3)吸物。しるもの。特に、味噌汁。(4)汁講(シルコウ)の略。(5)他人の働きによって得る利益。「うまい―を吸う」──とあります。(2)(3)はよしとして、特に(5)のように、食べ物の域をこぼれ出した意味合いもあります。

 一方、「つゆ(これも「汁」、および「液」と書きます)」をひくと、(1)液汁。しる。水気。(2)吸物のしる。(3)煮汁(ニジル)(4)つけ汁──とあり、食に関する意味合いが強いように感じます。したがって、「味噌汁(みそしる)」よりも、「味噌おつゆ」と言った方が、ちょっとだけ味わいがあるような気がしてしまうのは、私だけでしょうか。

 それはそうと、昔は味噌(そして醤油)を自分の家で作っているところがけっこうありました。倉庫や小屋などの暗いところで、少し大きなビンやかめや桶で作って保存していました。家々によって麦だったり米だったり、あわせだったりと様々。家の数だけ味噌の味があったようなものです。料理の時に味噌が無いと、お隣から分けてもらって作った味噌汁を食べることがたまにありました。そうすると、いつもとは違った味がして不思議な気持ちになった記憶があります。

 今や味噌は買う時代です。しかも、ダシ入りのものも出回るようになって、便利な世の中になりました。その一方で、お隣に味噌や醤油を借りに行く光景もあまり見かけなくなったように思います。家々で違っていた、昔ながらの「味噌おつゆ」の味、今はどうなっているのでしょう。お隣の食卓に上がり込むのもはばかられる世の中になりました。そういえば、「おすそわけ」なんてのも、あんまりやらなくなってしまいましたね。レンジで「チン」する音が、何だか乾いて聞こえる今日この頃です。

ピザが辛くてカレーがピンチ?

 1028日の朝日新聞の見出しを見て、

「はあぁーっ?(_😉?」と首をかしげてしまいました。そこには“英のカレー ピンチ ?辛すぎるピザ 「本場」シェフ不足?”とあったのです。

 「ピザがからいと、どうしてカレーがピンチになるというのだろう(?_?)。そりゃあ、たしかに甘口もあるにせよ、『カレーがかれー』という古典的なダジャレがある通り、カレーは辛いものと相場が決まっていて、その辛い食べ物チャンピオンの座をピザにとって代わられようとしている、とでもいうニュースなのか?」と不思議に思いながら読んでいくと、どうやらそうではないことがわかりました。

 イギリスがとる移民規制のあおりで、本場インドから調理人を呼びにくくなり、同国の国民食となったインド料理に危機が忍び寄っている、とのことでした。さらに読み進めると、イギリス政府は「2008年、欧州連合(EU)加盟国外からの労働ビザ申請に対し、学歴や収入、職種を点数化。一定の点数以上について発給を認める制度を導入」し、ビザの発給条件が厳しくなったことから、飲食店が本場の調理人の確保に苦労している、という内容でした。それで見出しを見直してみると、“英のカレー ピンチ ?辛すぎるビザ 「本場」シェフ不足?”となっていたのです。

ナンテコッタイ?(o)/!「ピザ」じゃなくて「ビザ」だったんですよ、「ビザ」!いわゆる入国査証です。ビザの発給条件が辛口(からくち)になり、インドからシェフが来辛く(きづらく)なった、というのが事の真相でした。とんだ勘違いに、一人赤面してしまいました。しかし、「ビ」と「ピ」を間違えたおかげで、懐かしい事も思い出しました。

今から四半世紀くらい前、ファミリーコンピュータ、いわゆるファミコンのロールプレイングゲームなどでは、ゲームを途中でやめるとき、「あぎのねほ るいもやて ぽぐさへぶ をわぴろじ んでよえご・・・・・」などという、何の脈絡もないひらがなが続くパスワード、というか呪文をメモしておかなければ、中断した所からゲームを再開することができなかった時代があったのです。

ゲームを再開しようと、メモを頼りにそのパスワードを入力していくと、「呪文が違うぞよ!」などといって受け付けてくれないことがしばしばあったのです。原因はというと、ゲームソフトではなく、メモが違っていたのです。どう違うかというと、

(1)」を「」と間違えた

(2)」を「」と間違えた

(3)」を「」と間違えた

(3)」「」「」「」「」を、それぞれ

   「」「」「」「」「」と間違えた

などです。

 当時のテレビはブラウン管。くっきりしませんでした。だから、このような読み間違いは容易に起こり得たわけです。最初のうちは「超ショック!!これじゃあ最初からやりなおしじゃん、サイアク!」などと途方にくれることもありましたが、だんだん「これはたぶん”ぬ”が”め”になってるんだろうな」と修正したりして、ゲームを再開できるようになりました。また、パスワードの画面をビデオで録画しておいて、困ったときには”ビデオ判定”をすることもありました。懐かしい!なんとも懐かしく、そしてくだらない思い出です。

今のゲームはそんなことしなくても勝手にセーブしてくれます。ゲーム機だけではありません。現代は色々なものが便利で、しかも高性能になりました。だけどその反面、味気ないと感じることもあります。テレビやラジカセや洗濯機・・・多くの電化製品は、それが故障した時、叩いたり、時には蹴ったりすれば動くことがしばしばありました。それでも動かなければ、分解していじれば直ることもありました。それでもだめなら、「町の電気屋さん」に持っていくと、そこで修理してくれました。裏ぶたをぱかっと開けて、部品を交換したり、はんだ付けしたりする様子を眺めるのはワクワクして楽しかったです。今だと「これはもう、買い替えですね」となってしまう事が多くなりました。ちょっと寂しく感じます。

何かと面倒だったけど、長所・短所があって、味わいがあった昔のもろもろの品々たち・・・。その思い出をカレーと一緒に煮込んで食べてみたい気がした出来事でした。

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