雑談

老後をロボットに託すのか? 否!

  112日の朝日新聞に、「トヨタ発 介護・医療ロボ」という記事があったのを読まれた方も多いかと思います。体の不自由な人や高齢者の自立歩行をたすけたり、ベッドから人を持ち上げて、トイレに移動させたりするロボットを、2013年以降に実用化するのだそうです。同日付の各紙に同じ記事が載っていましたので、それだけ皆の関心も高いことがうかがえます。

 価格は未定とのことですが、これが実用化されれば、私たち老健に務める者の仕事は減るのでしょうか?あるいは、私たちの仕事そのものが、ロボットに取って代わられるのでしょうか?食事介助ロボット、入浴介助ロボット、排泄介助ロボット・・・。日本人の老後はロボットが見ることになるのでしょうか?そうではないと思います。

 「やさしい言葉は、たとえ簡単な言葉でも、ずっとずっと心にこだまする」とは、マザー・テレサの言葉です(『いい言葉は、いい人生をつくる』、斎藤茂太、成美文庫より)。そしてその言葉とは、機械が発するものではなく、生身の人間が、心を込めて語りかけることで、相手の心の中で共鳴し、残響し続けるものなのではないでしょうか。

 未来。ある一人暮らしの男の部屋。彼に限らず、人々の身の回りの世話は全てロボットがやってくれる時代。いつもの朝と同じように、身体を起こし、顔を洗い、髭を剃り、着替えをし、朝食を食べさせ、歯を磨く。全ての動作をロボットが「機械的」に話しかけながら淡々とこなしていく。彼が死んでいるとも気付かずに・・・。そのような内容のショート・ショートを、星新一さんが書かれていました(タイトルは忘れてしました。ずーっと前の作品です)。

 そんな未来を、そんな老後を望む人は果たしてどのくらいいるでしょうか。重要なのは、ロボットをいかに有効に使うか、ということです。ロボットを活用することで、人間の負担や疲労、そして危険を軽減する一方で、人間は心を込めた介護に専念する。それにより、人間は人間らしく、心豊かな生活を送ることができるのではないでしょうか。そういう時代が到来したとき、今以上に介護の本質が問われるようになるのではないか、と思ったニュースでした。

秋入梅(あきついり:秋黴雨)

  先週に引き続き、またもや週末は雨でした。県内各地で様々なイベントが催されたのですが、内容変更を余儀なくされたところもあったようです。テレビのニュースで「天候の良いこの時期を選んで開いたのですが・・・」と主催者が残念がっていたのが放送され、聞いている方も残念な気持ちになりました。それにしてもすっきりしない天気が続きました。秋の長雨。また、その季節に入ることを「秋入梅(あきついり)」といいます(「広辞苑」)

 「雨の降る日は天気が悪い」とは、当然すぎるほど当然のことをわざわざ事新しく言うことわざです(「暮らしの中のことわざ辞典」、集英社)。まさにこういう場合にこれを言われてしまうと、駄目を押されたようで滅入ってしまいます。シトシトピッチャン、シトピッチャンな気分です(「子連れ狼」の主題歌)。

 週が明けて、久々にお日様を拝むことができました。宮崎はやっぱりこれでなくっちゃあ!気分を入れ替えて、スキッと行きましょう!果たして次なる週末の空模様はどうなりますやら・・・。

沈没船みつかる!

 「海狼伝」は白石一郎さんが書かれた海洋冒険時代小説の最高傑作。昭和62年、直木賞受賞作品です。

 時は戦国時代末期織。対馬の漁村で小舟を操り、海女を漁場まで送る「後押し」をしながら暮らしていた、18歳の笛太郎少年。あだなは「大将」。船と海への強い憧れを持つ──。

 そんな笛太郎が海賊の一味となり、やがて海のウルフとなって成長し、遙かなる海へと旅だっていく様を描いたスケールの大きい一冊です。この作品のすごいところは、海や船に関する描写の緻密さ。それも和船、ジャンク(中国船)、そして南蛮船という、それぞれ特徴のある船の構造やその操舵法などを、あたかもその時代に行ってきて、実物を目の当たりにしながらペンを走らせたんじゃないか!?と思うほどのリアルさで書き表しています。

 また、海賊といいながら、正義感に溢れる笛太郎。海中に溺れ行く敵を、何の迷いも無く自船に救い上げてやるなど、少しも悪者っぽくありません。むしろ正義の味方。天正の笛太郎を、平成で言うなら「ワンピース」のルフィー、はたまた「パイレーツオブカリビアン」のキャプテンジャックスパロー。昭和で言うならキャプテンハーロックのような存在と言えるでしょう。ぜひご一読あれ。

 そんな笛太郎も、きっと仰天して、愛船「黄金丸」の船べりから落っこちそうになるようなニュースが、1025日の宮崎日日新聞に載っていました。鎌倉時代に来襲した元寇の沈没船といられる船体が、長崎県松浦市の鷹島沖で見つかったのだそうです。しかも、船の構造が分かる状態での発見は国内で初めてとのことで、元寇の実態解明につながる、重要な手がかりになりそうだ、とも。そしてそして、これが本当に元寇のものであるならば、笛太郎が希望という名の帆に順風を一杯に受け、船を走らせていた時代から、さらに300年も前の船ということになります。しかも、場所も同じ。つまり、黄金丸が波かき分けて進む海原の底、はるか深く暗い所で、この元寇沈没船はひっそりと深い眠りについていたということになります。

 現代からさかのぼると、実に700年以上昔の船です。これはもうロマンです。著者の白石一郎さんは、「海狼伝」を書くにあたり、資料集めや現地調査に膨大な時間を割いたのだそうです。しかし、笛太郎の活躍と成長を、海底から見上げていた元寇船がいたことは、果たしてご存知だったでしょうか。残念ながら2004920日、黄泉路への航海に旅立たれた白石さん。ひょっとして今頃、「まさか、それは本当か!?」あるいは「やっぱりあったか!」などと言いながら、舵取りを誰かに任せ、再び原稿用紙に向かわれているんじゃないのかなあ、などと想像してしまったビックリニュースでした。

文化の日

  今日は文化の日。県内各地でも、それにちなんだ催しが、色々と開かれているかと思います。もっとも、老健に勤める皆様におかれましては、祭日とは関係なく、仕事に励まれている方も多いかと思います。

 はて、「文化」とは何ぞなもし?と思って広辞苑で調べてみると、「(1)文徳で民を教化すること。(2)世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。(3)(culture) 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、文明と区別する。⇔自然」・・・とあります。ここで気になるのが「文化」と「文明」の違いです。

 これも広辞苑をひいてみました。「(1)文教が進んで人知の明らかなこと。「―の世」(2)(civilization) 都市化。():生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等などの原則が認められている社会、すなわち近代社会の状態。⇔蒙昧・野蛮。():宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の技術的・物質的所産」・・・とあります。つまり、精神的なものが文化、物質的なものが文明ですか、ふーむ。

 そこまで調べて思い出したのが、ウン十年前、英単語の参考書(「試験に出る英単語」だったと思うのですが、定かではありません)に”文化(culture)”と”文明(civilization)”の違いについて、だいたい次のような内容のことが記されていました(たぶん。間違っていたらゴメンナサイ)。

         「文化は文明を破壊する(ことがある)」

 英単語の参考書ですから、単語と意味さえ覚えればいいのですが、何だか哲学的な響きがして、私にはこの1文が長い間ずーっと気になっていました。

 しかし、その言わんとするところが、わかったような気がしたのが、宮崎駿監督の代表作品とも言える「天空の城ラピュタ」です。「空を飛びたい。重力にあらがい、天空を支配して、世界を掌中に収めたい」という人間の欲望が飛行石を生み出し、そしてその欲望ゆえにラピュタは滅んでしまったのでした。ラストで飛行石の巨大な結晶が、人間の欲望の呪縛から解き放たれ、空高く、というか無限に広がる宇宙空間へ向けて、上昇し続けていくのですが、そのシーンをみて、「”文化が文明を破壊する”って、こういうことなのかなあ」と悟ったのでした。

 「文化の日」はあっても、「文明の日」はありません。物質が巷に溢れる世の中ですが、大事なのは人の精神、心だということを忘れてはいけません。携帯を家に忘れて出てきてしまって、一日中携帯が気になってしょうがなく、落ち着かずに過ごしたことはないでしょうか。人が物を支配することはあっても、物が人に支配されるようになってはいけません。そのことを「文化の日」に再確認しなさい、と設けられた祭日なのかなあ、と考えてしまった113日です。ちなみに大安。ハッピーなことがあるといいですね。

御御御付

  「御御御付」と書いて「おみおつけ」と読みます。「味噌汁」をていねいに表現した言葉です。このように、同じ漢字が3回連続する名詞はめったにないです。ついでながら、この「めったにない」を博多弁で言うと「なかなかなか」となります。

 さて、宮崎ではこの「御御御付」、つまり味噌汁を、高齢者が「味噌おつゆ」と言われるのをよく耳にします。よい響きですね。広辞苑をひくと、「汁(しる)」は、(1)物体からしみ出る液。または搾り取った液。 (2)調理用の液。出し汁。煮汁。つゆ。(3)吸物。しるもの。特に、味噌汁。(4)汁講(シルコウ)の略。(5)他人の働きによって得る利益。「うまい―を吸う」──とあります。(2)(3)はよしとして、特に(5)のように、食べ物の域をこぼれ出した意味合いもあります。

 一方、「つゆ(これも「汁」、および「液」と書きます)」をひくと、(1)液汁。しる。水気。(2)吸物のしる。(3)煮汁(ニジル)(4)つけ汁──とあり、食に関する意味合いが強いように感じます。したがって、「味噌汁(みそしる)」よりも、「味噌おつゆ」と言った方が、ちょっとだけ味わいがあるような気がしてしまうのは、私だけでしょうか。

 それはそうと、昔は味噌(そして醤油)を自分の家で作っているところがけっこうありました。倉庫や小屋などの暗いところで、少し大きなビンやかめや桶で作って保存していました。家々によって麦だったり米だったり、あわせだったりと様々。家の数だけ味噌の味があったようなものです。料理の時に味噌が無いと、お隣から分けてもらって作った味噌汁を食べることがたまにありました。そうすると、いつもとは違った味がして不思議な気持ちになった記憶があります。

 今や味噌は買う時代です。しかも、ダシ入りのものも出回るようになって、便利な世の中になりました。その一方で、お隣に味噌や醤油を借りに行く光景もあまり見かけなくなったように思います。家々で違っていた、昔ながらの「味噌おつゆ」の味、今はどうなっているのでしょう。お隣の食卓に上がり込むのもはばかられる世の中になりました。そういえば、「おすそわけ」なんてのも、あんまりやらなくなってしまいましたね。レンジで「チン」する音が、何だか乾いて聞こえる今日この頃です。

ピザが辛くてカレーがピンチ?

 1028日の朝日新聞の見出しを見て、

「はあぁーっ?(_😉?」と首をかしげてしまいました。そこには“英のカレー ピンチ ?辛すぎるピザ 「本場」シェフ不足?”とあったのです。

 「ピザがからいと、どうしてカレーがピンチになるというのだろう(?_?)。そりゃあ、たしかに甘口もあるにせよ、『カレーがかれー』という古典的なダジャレがある通り、カレーは辛いものと相場が決まっていて、その辛い食べ物チャンピオンの座をピザにとって代わられようとしている、とでもいうニュースなのか?」と不思議に思いながら読んでいくと、どうやらそうではないことがわかりました。

 イギリスがとる移民規制のあおりで、本場インドから調理人を呼びにくくなり、同国の国民食となったインド料理に危機が忍び寄っている、とのことでした。さらに読み進めると、イギリス政府は「2008年、欧州連合(EU)加盟国外からの労働ビザ申請に対し、学歴や収入、職種を点数化。一定の点数以上について発給を認める制度を導入」し、ビザの発給条件が厳しくなったことから、飲食店が本場の調理人の確保に苦労している、という内容でした。それで見出しを見直してみると、“英のカレー ピンチ ?辛すぎるビザ 「本場」シェフ不足?”となっていたのです。

ナンテコッタイ?(o)/!「ピザ」じゃなくて「ビザ」だったんですよ、「ビザ」!いわゆる入国査証です。ビザの発給条件が辛口(からくち)になり、インドからシェフが来辛く(きづらく)なった、というのが事の真相でした。とんだ勘違いに、一人赤面してしまいました。しかし、「ビ」と「ピ」を間違えたおかげで、懐かしい事も思い出しました。

今から四半世紀くらい前、ファミリーコンピュータ、いわゆるファミコンのロールプレイングゲームなどでは、ゲームを途中でやめるとき、「あぎのねほ るいもやて ぽぐさへぶ をわぴろじ んでよえご・・・・・」などという、何の脈絡もないひらがなが続くパスワード、というか呪文をメモしておかなければ、中断した所からゲームを再開することができなかった時代があったのです。

ゲームを再開しようと、メモを頼りにそのパスワードを入力していくと、「呪文が違うぞよ!」などといって受け付けてくれないことがしばしばあったのです。原因はというと、ゲームソフトではなく、メモが違っていたのです。どう違うかというと、

(1)」を「」と間違えた

(2)」を「」と間違えた

(3)」を「」と間違えた

(3)」「」「」「」「」を、それぞれ

   「」「」「」「」「」と間違えた

などです。

 当時のテレビはブラウン管。くっきりしませんでした。だから、このような読み間違いは容易に起こり得たわけです。最初のうちは「超ショック!!これじゃあ最初からやりなおしじゃん、サイアク!」などと途方にくれることもありましたが、だんだん「これはたぶん”ぬ”が”め”になってるんだろうな」と修正したりして、ゲームを再開できるようになりました。また、パスワードの画面をビデオで録画しておいて、困ったときには”ビデオ判定”をすることもありました。懐かしい!なんとも懐かしく、そしてくだらない思い出です。

今のゲームはそんなことしなくても勝手にセーブしてくれます。ゲーム機だけではありません。現代は色々なものが便利で、しかも高性能になりました。だけどその反面、味気ないと感じることもあります。テレビやラジカセや洗濯機・・・多くの電化製品は、それが故障した時、叩いたり、時には蹴ったりすれば動くことがしばしばありました。それでも動かなければ、分解していじれば直ることもありました。それでもだめなら、「町の電気屋さん」に持っていくと、そこで修理してくれました。裏ぶたをぱかっと開けて、部品を交換したり、はんだ付けしたりする様子を眺めるのはワクワクして楽しかったです。今だと「これはもう、買い替えですね」となってしまう事が多くなりました。ちょっと寂しく感じます。

何かと面倒だったけど、長所・短所があって、味わいがあった昔のもろもろの品々たち・・・。その思い出をカレーと一緒に煮込んで食べてみたい気がした出来事でした。

祝!大山選手

 やった!やった!やりました!!宮崎出身のプロゴルファー、大山志保選手が復活V!先ごろ行われた兵庫県マスターズGCレディースで、3年ぶりの優勝を果たしました。通算12勝目。万歳です!

 2006年に賞金女王に輝き、今後ますますの活躍が期待されていたのですが、左肘の痛みに悩まされ、思うような結果が出せずにいた大山選手。その苦しみはいかばかりだったでしょうか。

 2009年末に肘を手術し、その後懸命のリハビリに取り組まれてきたとの事。あきらめずに努力を続けてきた事が、今回の結果に結びついたことと思います。「」とのコメント今まで生きてきた人生で一番幸せなくらいうれしいが、1024日の宮崎日日新聞にありました。一緒に掲載されていた写真、右の握り拳を高く突き上げているものでした。大山選手のガッツポーズと言えば、体を前、そして右にすこしかがめ、拳は上に上げず、右肘を曲げて少し控えめに”グッ”とやるものでした。それが、某有名演歌歌手の歌っているポーズに似ていることから、”五木ガッツ”と言われていましたが、今回の写真はその控えめな”五木ガッツ”ではなく、喜びを全身で表すポーズでした。

 大山選手はリハビリを通じて、身体面だけでなく、精神面もぐっとたくましくなったように思えます。あのポーラ・クリーマー選手とのプレーオフを制したのですから、本当にすごいです。老健もリハビリを行う施設。その内容や方法に違いがあるとしても、リハビリを通じて幸せになるという目的は同じだと思います。大山選手を見習って、大いにリハビリに励もうではありませんか。

 

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        おっと、この帽子・・・!?

 

 

 

 

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2006 LPGA TOUR MONEY QUEEN Shihoとの刺しゅうがありますよ。新たな年が縫い込まれた帽子、見たいと願うのは私だけではないはず。

秋寒(あきさむ)

  「秋寒(あきさむ)」を広辞苑をひもとくと「秋も半ばを過ぎる頃、特に朝夕に感ずる寒さ」とあります。また、「秋冷(しゅうれい)」とも。それがぴったりくるような昨日(26日)、そして今日の朝の肌寒さでした。天気予報では先週のうちからこの冷え込みを伝えていましたが、実際にこの寒さを感じてみるまではあまりピンときませんでした。だけど、朝起きてみて、そのひんやりした空気に触れると、「ああ、もう冬が近いのだなあ」と実感してしまいます。立冬は118日。その足音が聞こえたような朝でした。

 なお、「宮崎県のことわざ・格言」(鉱脈社)によれば、「十月はじめはそら豆作り、十月末にはエンドウ作れ」という言い伝えがあるそうですが、皆様のお近くの畑の風景はいかがでしょうか。

 とにもかくにも、利用者様はもとより、職員の皆様にかれましても、体調を崩されませぬよう、お気を付けください。

未来はやってこない!?

  アインシュタインは言ったのだそうです。「私は未来のことは考えない。未来は必ずやってくるから」と。しかし、「未来は必ずしもやってこないかも?」という研究結果が、世界の物理学者を仰天させています。

 これは、「素粒子のニュートリノが光より速い」というものです。名古屋大学などの国際実験チームがヨーロッパで実験し、測定した結果、「ニュートリノは光の速さ(秒速30万キロメートル)よりも10万分の2速い」と923日発表したものです。アインシュタインが唱えた相対性理論。「光の速度を超える物質はない」と言われて100余年、その前提で物理学がずーっと語られてきたわけですが、今になって、「それがありました」となったものですから、さあ大変。事実であれば、現代物理学を支えてきた理論を、その根底から見直さなくてはならなくなりそうです。

 そして、そして!この相対性理論によると、物体の速度が光速に近づくほど、物体にとっての時間は遅くなり、光速で動く物体は時間が止まってしまう、と言われてきたのです。それはあくまでも「光より速いものはない!!」という前提でのことです。それがこの期に及んで「光より速いものがありました」となれば、その物体は、時間をさかのぼっている、ということになってしまうのです。つまりタイムマシーンです。夢のような話ですが、この研究結果、これから世界中の学者らによって検証されていくことでしょうが、果たしてその真偽のほど、いかに出ますことやら。

 この報道を知って、筒井康隆さんの「宇宙衛生博覽會」(新潮文庫)に収められている、「急流」という短篇小説を読み直してみました。昭和54年、今から30年も前の作品です。これは、「時間の流れが早くなる」という現象が世界中で起こる、という内容です。最初は会社に5分、10分遅れる程度だったのが、加速度的に早さが増し、朝家を出たら夜会社に着いたなどはまだ序の口。厚着して冬家を出たら夏に着いて汗びっしょり。しまいには二十世紀の最後の数年があれよあれよとわずか数秒で過ぎてしまい、迎えた二十一世紀。2001年から先に時間はなかった、という、まさに筒井ワールド全開のはちゃめちゃストーリーです。

 そういうわけではありますが、とりあえず現在の私たちの日常生活において、時間というものは万人に等しく与えられているものと言えます。それなのに、「一日があっという間に過ぎた」という日と、「一日がとても長く感じた」という日があったりします。大事なのは、一日一日を、極言すれば一瞬一瞬を、いかに有意義に過ごすか、ということではないでしょうか。遠い将来はさておき、現在の科学力では、過去に戻ってやり直すということはできません。その日、その時を大切にしなければならない、と思った、びっくりニュースでした。

停電とコスモス

  1021日の未明の事でした。雷鳴が轟いていました。雨も降って、風も強く吹いていました。その光景を眺めるともなく眺めていた、とその時です。

 遠くの空が一瞬ピカッと光ったと思ったら、大淀川の左岸側の明かりという明かりが一斉に消えたのです。ぷっつりです。橋の灯りも消えてしまい、街は真っ暗闇に包まれてしまいました。

 一方、川の右岸はというと、何の異常もなく、家の灯り、街灯の明かりとも点いていて、いつもの同じ街の表情を見せていました。

 川を挟んで、日常と非日常が向かい合っているその光景は異様でした。と同時に、普段は水や空気のように、あるのが当然と思っている電気の存在の有り難さを再認識させられました。特に今年は、節電への取り組みが叫ばれている最中。電気を大事に使わなければならないと思いました。

 それから何時間かが過ぎて、明るくなってからの事です。花壇のコスモスが、一本残らずも横倒しになっているのを見ました。激しい雨と風にやられたのです。実はその前日、やっと一輪だけ開花していたのです。「これからどんどん咲いていくね。写真を撮ろうか」などと話していたばかりだったのに、明けてみたら全滅です。ショックでした。しかし、その後のニュースで五ヶ瀬川のアユやなが濁流に流されてしまったり、落雷による火災が発生した事などが報じられ、事態は菜の花云々どころでは無いことを知りました。

 自然災害の恐ろしさを思い知らされる昨今です。それに加えて、人工衛星が落ちてくるかもしれない、なんてことまで心配しなければならない時代になってしまいました。文字にすればたった二文字の「安全」。しかし、絶対の安全というものは、なかなか保障されるものではないのだ、と思わずにはいられない出来事でした。

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