雑談

老齢は山登り

  「老齢は山登りに似ている。登れば登るほど息切れするが、視野はますます広くなる」と言ったのは、映画監督のイングマール・ベイルマンだそうです(出典:斎藤茂太「いい言葉はいい人生をつくりる」、成美文庫)。うべうべしきことです。

 百歳の詩人、柴田トヨさんの詩集がベストセラーになっています。百歳という高い頂から眺めた今の世の中はどう映っているのでしょう。表題作にもなった「くじけないで」という作品の中で詠んでいる、「私 辛いことがあったけど 生きていてよかった」という言葉、ずしーんと来ます。

 老健の利用者様から教わることの中にも、時としてものすごい重量を感じることがあります。いつも早食いをされる方がおられたので、それはなぜか?と調べてみたところ、「兵隊にいた時の食べ方が身に染みついているから。いつ死ぬかわからないので、早く食べなければならなかった。いつも命がけで食べていた」という事がわかりました。食べるという行為は、第一義的に生きるためである、という食の本質をどすーんと再認識させられた出来事でした。

 生きとし生けるものは全て、人生というそれぞれの山を登り続ける宿命です。生きている限り、決して下ることはできない。だからこそ、自分より上を登っている人に、上の天候を聞いたり、危険な場所とその乗り越え方を教えてもらったり、必要な道具や心構えを問うたり、そして何よりも、上から眺めた景色がどれだけ素晴らしいか?たとえ辛いことがあるにせよ、人生という山を登ることが、どれだけ楽しく、魅力に溢れているか?それをお聞かせ願いたいと思いました。

モッタイナイ

  925日、ワンガリ・マータイさんが亡くなられました。2004年のノーベル平和賞受賞者。アフリカ全土で植林活動を行った、ケニア出身の環境保護活動家。特に、「世界に『モッタイナイ(もったいない)』を広めた人」として、日本人には馴染みが深い方だったのではないでしょうか。享年71歳、まだ早いのでは・・・このこと自体、「モッタイナイ」と、残念な気持ちになりました。

 この報道を聞いている時、部屋にあったこんなものが、目に入りました。

 

DSCN1238.jpg(一定の年齢以上の方だと、「あっ!あれだ!!」とわかるのでは?)

 

 

 「オリンパスペンD2」というカメラです。「オリンパスペン」シリーズの中で、Dシリーズは最上位に位置づけられています。発売は1964年、今から47年も前ですが、今でもちゃんと撮ることができる、現役バリバリのカメラです。

 この「ペン」シリーズが世に出たのは1959年。レンズは高性能のものを用いながら、他の部分についてはコストダウンをはかり、安くて小さいのに高性能!と、それはそれは大評判だったそうです。

 

 それはそうと、この「ペン」のどこが「モッタイナイ」と関係あるのか?というと、このカメラの最大の特徴ともいえる、「ハーフサイズ」という構造にあります。これは、フィルム1枚分で写真2枚が撮影できる、というお得な仕組みです。したがって、24枚撮りフィルムなら48枚、36枚だと何と72枚もの写真が撮影できるわけです。このカメラが出た当時、写真は白黒からカラーに変わろうとしていた頃でした。カラーフィルムは高価でしたので、この「ペン」シリーズ、「モッタイナイ」の精神に基づき、フィルムを大事にするカメラだったと言えます。それでも「2倍撮れるから!」と、デジカメみたいに枚数を気にせずじゃんじゃん撮りまくるということはせず、残りの枚数を気にしながら、「ここぞ」というシャッターチャンスに集中していました。ですから、ちょこっと撮ってすぐ現像、ということはもってのほか。最後の一枚まで大事に大事に撮り終えて、それからようやく写真屋に持って行ってたものです。

  

 

DSCN1239.jpg

     (↑フィルムカウンターの目盛りが80枚分まであります!!)

 

 その一方で、「ペン」は電池が不要!今のデジカメみたいに、バッテリーが切れを心配することもありません。特に写真のペンD2は、電池無しで露出を測ることもできた優れもの。自然に優しいカメラでもあったわけです。

 このカメラで、色々な想い出を撮って来られたであろう方々が、老健を利用される時代にさしかかってきました。写真だけでなく、生活の色々な場面で「モッタイナイ」の精神を発揮して来られた人生の先輩方に、その教えを請いたいと思った次第です。マータイさんの訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

お好きな服は?(秋の七草)

  「秋の七草色増すころよ 役者なりゃこそ旅から旅へ・・・」で歌い出すのは、霧島昇さんが歌った名曲、「旅役者の」です。西条八十作詞、古賀政男作曲、というゴールデンコンビによる作品です。この時期になるとついつい口ずさんでしまう一曲です。

 歌い出しに出てくる「秋の七草」とは、女郎花(おみなえし)、薄(すすき)、桔梗(ききょう)、撫子(なでしこ)、藤袴(ふじばかま)、葛(くず)、萩(はぎ)7つ。春の七草だと「せりなずなー、ごぎょうはこべらほとけのざー、すずなすずしろこれぞななくさ」と五七五で覚えやすいし、七草がゆも食べる習慣もあるので、わりと馴染みがあるかと思うのですが、秋の七草は覚えにくいし、馴染みも浅いのではないでしょうか。老健の利用者様に尋ねても、「せりなずなー、・・・」はすぐに出ても、「おみなえしー、・・・」と答えられる方はめったにお目にかかれません。

 ところが、秋の七草の覚え方、ちゃんとあるんです。数年前、テレビの天気予報のコーナーで、気象予報士の方がおっしゃっていました。「『お好きな服は?』と覚えるといいですよ」と。

 つまり、

 お(おみなえし:女郎花)

 す(すすき:薄)

 き(ききょう:桔梗)

 な(なでしこ:撫子)

 ふ(ふじばかま:藤袴)

 く(くず:葛)

 は(はぎ:萩)

というわけです。いかがでしょうか?これなら覚えられそうですか?

 え!?「オリーブ、スイートピー、きんもくせい、なのはな、フリージア、クロッカス、ハイビスカス」になる!?うーん・・・。 

ガス抜き

 「ガス抜き」を広辞苑で調べると「(1)炭鉱などで、ガス爆発の予防のためにガスを取り除くこと。(2)(比喩的に)組織内に鬱積した不満が噴出しないように、解消させること」とあります。日本のあちこちにあった炭鉱も廃坑となってしまった現在においては、(2)の意味で用いられることが多いのではないでしょうか。

会社の帰りに上司が部下に「おい、○○君、今夜帰りに一杯どうだね?」などと誘って、不満を聞いたり、相談に乗ったりするのも、ガス抜きが目的という場合もあったりして・・・。「酒は社会の潤滑油」、「飲みニュケーション」などと言いながら、ついで、つがれて千鳥足・・・。世界を見渡すと、就業時間が過ぎた途端に上司も部下も関係無し。時間外では赤の他人、プライベート干渉すべからず、それではまた明日、ごきげんよう。という割り切ったお国柄のところもある、と聞いたことがあります。それに比べると、この「ガス抜き」、「和」を重んじる日本には不可欠の作業、というか、少し飛躍して文化なのかも?ただし、飲酒運転は絶対にだめです。くれぐれも”飲んだら乗るな”、徹底しましょう。

 前置きが長くなりましたが、そっちの「ガス抜き」じゃなくて、(1)の意味での「ガス抜き」ができないか?と切望するようなニュースが飛び込んできました。1012日付の宮崎日日新聞によると、新燃岳の噴火活動が再び活発化する可能性があるとのこと!

これは、火山噴火予知連絡会が同11日、気象庁で開いた例会の中でまとめられた検討結果だそうです。今は静まったかのように見える新燃岳。しかし、深部からのマグマ供給が続いていて、このままだと、来年2月ごろには、あの爆発的噴火の前の量に戻ると推定されることから、警戒を呼び掛けている、と報じられていました。

とんでもないことです。マグマなんてため込んで欲しくないです。あの爆発、あの振動、そしてあの火山灰や火山弾・・・二度とごめんです。連絡会の発表が間違いであって欲しいと願うばかりです。

もしも百歩も千歩も、いや一万歩譲って発表が正しいとして、「ガス抜き」みたいな事ができないものでしょうか?一気にドカンと爆発するのじゃなくて、少しずつ少しずつ、被害が及ばない程度に「プッ、プッ、プッ」とやれないものでしょうか?新燃岳の横から穴を空けて、マグマをちょこっとずつ抜き出せないものでしょうか?今こそ、本当に今こそ、「どげんかせんといかん!!」という時だと思うのですが、どげんもでけんものなのでしょうか。

 宮崎の美しい空や山や大地や海、そして私たちの住む町、さらに何よりも私たちの心が、再び灰色に埋まってしまうことがないことを心から祈るばかりです。

秋の草一本は春の草千本

  秋の雑草は、一本でも種子が実って冬を越し、春には多くの芽を出して茂るので、秋の除草は大切だ、という、主に東諸県方面で使われていることわざだそうです(出典:「宮崎県のことわざ・格言」鉱脈社)。なるほど、いいこと言っています。

先日、ディスカウントストアで除草剤を、それはそれはびっくりするほど大量に買い込んでいる人を見かけました。「『秋の草一本は春の草千本』だからねー」と言っていた、かどうかは定かではありませんが。

 いずれにせよ、わずかなリスクや兆候を見逃すと、重大な事象を引き起こしかねない、という戒めとして捉えるならば、このことわざは農作業以外にも幅広く通用するのではないでしょうか。老健に勤める者として、春の草千本を嘆く前に、その原因となる一本の雑草を秋の今のうちに抜き取る努力を惜しまないようにしたいと思う今日この頃です。

秋桜(≠コスモス)

  時は十月、神無月。さすがに朝夕は涼しい、というか肌寒くなって、秋真っ盛りと言ってもよいのではないでしょうか。そんな折り某所で見つけたのがこれ。なんだろう?

 

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 これって、まさか!?と思って近づいてみると、・・・・・あっ!!!

 

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 そうです。桜の花が開いていたのです。今は春?いいえ、秋です。なぜ今頃桜が・・・?

 九月下旬に一時期うんと気温が下がった時があって、その後また上がったため、慌てた桜が「あっ!冬だ、と思ったらもう春だ!こりゃあいかん!」と花を開かせたのでしょうか?でもって、周りを見回したら誰も咲いていない。「しまった!寝ぼけて間違っちゃった」と恥ずかしくなって、赤面ならぬ桜面して桃色に染まっているのでしょうか?

 あるいは秋の花の代表選手のコスモスに嫉妬したか!?つまり、こいつが「秋桜」などと称して、この時期に幅を利かせるものだから、「そっちの”桜”はにせ者よ!本物は私よ!わ・た・しっ!!」と主張するために、何輪かを咲かせて見せたのかも?あたかも、チャン・グンソクが「俺だけをを見ろ!」と言うがごとくに。 

 

 

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 ともかくこの時期、桜が開花するのは、そんなに珍しいことでは無いようです。本番はまだ半年先。映画の予告編よろしく、今から宣伝のために咲いてくれたのかもしれませんね。先日、利用者の皆さんとカラオケで「北国の春」を一緒に歌ったところ、何と百点満点が出て、みんなで喜びました。来年は満開の桜の下で歌いたいなあ、と思いました。今から春が楽しみになるような、ちょっといいニュースでした。

夜食過ぎてのぼた餅

 「夜食過ぎてのぼた餅」とは、「時機が過ぎて価値がないことのたとえ」だそうです(集英社『暮らしの中のことわざ辞典』より)。晩ご飯をしこたま食べて、おまけに小腹が空いたと夜食まで食べて、「はぁーっ、食った食った、腹一杯だ」というときにぼた餅をもらっても、もう食べられない。嬉しくもなんともない、ということから来ていることわざだそうです。しかし、本当にそうなんでしょうか?

 「甘い物は別腹」と言うように、料理をしこたま食べても、その後に甘いものが出てくると、ついつい欲しくなったりするのではないでしょうか。時あたかも食欲の秋。熊は今の時期に一杯食べ込んで、冬眠に備えると聞きますが、人間も来るべき冬に備え、皮下脂肪を蓄えようという本能でも働くのでしょうか。いずれにせよ、食後のデザートは、満腹中枢をリセットするような、甘い、あまーい誘いかけをしてくるものです。

 しかし、その誘惑がくせ者。ぼた餅は一つで215.2キロカロリーもあるのです(もち米20グラム71kcal、小豆20グラム67.8kcal、砂糖20グラム76.4kcalとして計算)。これを夜食も食べたそのまた後に食べるとなると、「天高く馬肥ゆる秋」ならぬ、「天高く人肥ゆる秋」になってしまいそうです。たいていの人間は冬眠はしないはず。腹八分目で抑えておきたいものです。ちなみに、最近のノートパソコンのバッテリーには、100%完全に充電するのではなく、80%までの充電でとどめておくことにより、バッテリーの寿命を長持ちさせる、という機能がついたものもあります。この点においては、人間も見習うべきところがあるようです。

 それはそうと、ぼた餅がらみのことわざと言えば、やはり「棚からぼた餅」。「棚からぼた餅が落ちてくるように、思いがけない幸運がころがりこむこと」という意味は周知の通りです(出典:同上)。しかし、どうにも解せなくないですか?このことわざ。思いがけず、棚から落ちてきたぼた餅って、一体いつから棚にあったのでしょうか?もし自分で置いていて、すっかり忘れていたのだとすれば、ずーっと前のものかもしれません。傷んでいて、おなかをこわしはしないでしょうか?そんな古いぼた餅が思いもかけずに落ちてきて幸運だ!と喜べますか?あるいは自分以外の人が置いていたぼた餅だったとしても、いつ、誰が置いていったかわからないものを何の疑問も持たずに食べて良いものでしょうか?良くないですよねー。思いもかけずにタンスから忘れていたへそくりが出てくるのと、得体の知れないぼた餅が棚から落ちてくるのとでは、本質的に異なります。とりわけ老健に勤める人間であれば、食品衛生管理には細心の注意を払いたいものです。あと、夜食過ぎてのぼた餅にも。

高齢者とインターネット

  「コンピューターおばあちゃん」という歌が、NHKみんなの歌で流れたのは、1981年、今から実に30年も昔のことになります。その頃、コンピューターと言ったら、それはそれは特殊な機械で、特殊な人が特殊な場所で使うものでした。

 インターネットにしても、それ以前は「パソコン通信」と言って、パソコンやワープロ専用機(これももう見かけません)に「モデム」をつなぎ、電話回線でダイヤルアップ。「ピーーー、ガガガガガーーー」とやってつないでいました。真っ暗な画面に浮かび上がる文字ばかりの画面。そこで見知らぬ人とメールや電報のやりとりや、掲示板での意見交換などをしていたのです。

 有料のニフティサーブがパソコン通信の最大手でしたが、電話代はかかるけど、無料で楽しめる、新聞社等がやっているパソコン通信(”草の根BBS“)も色々ありました。ただし、一度にアクセスできるのはたった10人くらいで、つなごうと電話すると話し中、というところもあるなど、今では信じがたい時代だったわけです。それぞれのネット同士はつながっていないから「インター」ネットじゃなかったのです。「オフ会」と呼ばれる集まりでは、居酒屋などで、老若男女が本名ではなく、それぞれのハンドルネームで呼び合うものですから、周囲のお客から変な目で見られていました。

 時は移って現在。それが今や、一家に一台を通り越し、一人に一台、いや一人で何台も、という時代です。そしてインターネットもテレビを凌駕する勢いで成長、普及してきました。928日の日経新聞に「高齢者、ネットでつながる」という記事が載っていました。インターネットの交流サイトやメールなどを使って、家族や友人とコミュニケーションをとる高齢者が増えているとのこと。また、緊急時に備えたり、孤立を防ぐために活用しようという取り組みも紹介されていました。東九州大震災がきっかけになっているとも。

 望むと望まざるとを問わず、これからの私たちはネット社会の中で暮らしていくこととなるでしょう。そしてこのネット環境、これからどんな発展をしていくのでしょうか。スマホでさえも、数年後に「ああスマホね。あんな不便なものもあったなあ」と懐かしがられるようになるかもしれません。

 そんなネット社会の中で、高齢者はどう暮らしていくのか?インターネットは諸刃の剣。家にいながら世界とつながりが持てることは、正しく使えば本当に便利ですが、一歩間違うとトラブルの元凶になりかねないことが指摘されています。特に独居高齢者の場合、自らの判断でクリックをしなければなりません。ネット犯罪はますます巧妙になる中、ネットを利用する高齢者はこれからますます増えていくでしょう。今の高齢者だけでなく、今ネットを使いこなしている若年者でも、これから年をとっていくわけですから。高齢者にも安全、安心なネット社会づくりが急務です。

 また、老健施設内においても、利用者がネットを自由に、しかし安全に使用できる環境を整備する事が求められることになるでしょう。携帯やスマホを忘れて出かけて、とても不便な、そして落ち着かない思いをした方も少なくないはず。それが無い環境で過ごすなんて考えられない、そんな世代が老健を利用するようになるのは、そんなに先の事ではないかもしれません。近い将来の自分自身に関わる問題ととらえて、今から考え、取り組むべき時かもしれませんね。

きろくたけはちかずらじゅう

 「今は何月ね?六月ね?」と聞かれたのです。トイレの場所がわからず、そのたびに教えて差し上げていた方から聞かれたのです。窓の外は彼岸花。「違いますよ。九月ですよ」と誤りを正してあげようか、と思ったその矢先、「家の庭にある木を切らんといかん。“きろくたけはちかずらじゅう”と言うじゃろが!」と。はぁー(?_?)???

 記録ががどうしたのよぉ??と首を傾げていると、「あんたは”きろくたけはちかずらじゅう”を知らんとね?木を切るなら六月、竹を切るなら八月、蔓を切るなら十月が一番いいということよ。昔から“木六竹八蔓十”と言うとを知らんとはどういうこつね?」とおっしゃるじゃありませんか(@_@);これは全くの初耳!!

 そんな事があるのだろうか?とネットで調べてみると、なんとあるじゃあありませんか!「木六竹八」と、「木六竹八塀十郎(きろくたけはちへいじゅうろう)」というのが出てきました(”蔓十”は見つけることができませんでしたけど)。木や竹にはそれぞれに適した伐採の期間があり、木は六月、竹は八月に切ると品質が良く、また土塀は十月に塗ると長持ちするのだそうです(ただし、これには諸説あり、”その時期には切るな”と戒めているものもあるようです)。

 立った鳥肌がおさまらぬまま、「今は9月ですよ」と教えてさしあげたのですが、お互いが教え合った情報の重さ、そして深さに雲泥の差があることを痛感しました。一万円札を一円で買ったような、そんな不等価交換で、申し訳ない気持ちでした。この方はおそらく、これまでの長く豊富な人生経験の中で、”木六竹八蔓十”を先人から教わり、そして自ら体験し、確認し、納得して、「知恵」として心身に深く焼き付けておられたのだろう、と思いました。

 今が何月か?というのは、カレンダーを見ればわかるけれど、”木六竹八蔓十”を経験として学び、自らの知恵として身につけるのは容易なことではありません。広辞苑によれば「知識」とは、「ある事項について知っていること」。これに対して「知恵」とは、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」とあります。たとえトイレの場所がわからなくても、そして今が何月かわからなくても、私などには到底及びもしない、たくさんの知恵を持っておられるであろう素晴らしい人生の大先輩から、もっともっと多くの事を教わりたいと思った出来事でした。

偕老同穴(かいろうどうけつ)

  広辞苑によれば、「生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる意で、夫婦が仲むつまじく連れ添うこと」という四字熟語です。敬老の日にちなんで、共に百歳を迎えられるご夫婦がニュースで取り上げられ、話題になったりしますが、苦楽を共にしつつ、添って添われて齢(よわい)を重ねていくという生き方、いいものですね。

 利用者様が好きな「偕老同穴ソング」と言えば、やはり村田英雄さんの「夫婦春秋」ではないでしょうか。これはまず、歌詞が素晴らしいです。着いて来いとも言わない寡黙(不器用な?)な二十歳の男性と、黙ってついて来た十九歳の女性が結婚。翌日食べるものさえなかったくらい貧しかったけれど、やりくり上手の妻は、ぐちの一つも言わずに「貧乏は十八番(おはこ)よ」と笑顔。だけど、夫の成功には喜びの涙。

間口九尺、奥行き二間という狭く粗末な家でスタートした結婚生活は胸突き八丁の苦しい事の繰り返し。しかし、苦労は二人で半分こ、喜びは二人で倍にしながらずーーーーーーっと歩んできた二人。そんな夫婦の歩みを振り返った夫が、「俺とお前で苦労した花は大事に咲かそうなあ」と語りかける内容です。

 これにゆったり、じっくり、どっしりしたリズム(終始、”どん、つつ、どん、つつ”というパターンです)とメロディーがついて、さらに村田英雄さんの図太く男らしい、しかし優しい声が語りかけるように歌い上げていますからたまんないです。心にじわーん、じわーんと響く名曲です。「夫婦春秋」というタイトルもこれまたぴったんこです。

 ご夫婦で老健を利用されている方も少なからずおられるのではないかと思いますが、偕老同穴を実践されている人生の大先輩に、尊敬と感謝の気持ちを込めて、「夫婦春秋」のプレゼントなんぞ、いかがなものでしょうか?

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