雑談

明けの明星綺麗です

 「明日早出なんだけど、早起きって苦手なんだよなあ(+o+)」という老健職員の皆様に、ちょっとだけ早起きが楽しくなるかな?という話題です。

DSCN2105.JPG  写真は日の出前の東の空を撮影したもの(76日午前430分頃撮影)です。明るい2つの星が輝いているのがおわかりいただけますでしょうか。下のまぶしいのが金星、そしてその上で金星よりちょっと暗いのが木星です。また、写真ではわかりませんが、金星の下にはおうし座の目の部分にあたる赤い一等星、アルデバランも見えます。同じく、写真ではわかりませんが、木星の上には「すばる」ことプレアデス星団も見えて豪華です。さらにさらに、714日から16日にかけては、これに細い細い下弦の月も加わってきます。一番の見ごろは15。上からすばる木星アルデバラン金星という千両役者達がずらーっと並びますからこいつはゴージャス(^_-)-☆。

 宮崎では残念ながら拝めなかった金環日食。しかしそれだけが天体ショーではありません。早起きして谷村新司さんの名曲「昴」に耳をかけながら夏の星々の「座長大会」を満喫してみてはいかがでしょうか。

 なお、その美しさについつい見とれてしまい、気が付いたら早出業務に遅刻してしまったΣ(゚д゚lll)・・・となったとしても、当協会としては責任を負いかねますので申し添えます。

のばせばのびる

 「のばせばのびる カツレツの肉よ のばしてのびない月末の払い・・・」と歌いだすのは楠木繁夫の名曲、というかコミックソング「のばせばのびる」です。作詞は江川真夫、作曲はなんとあの昭和の大音楽家、古賀政男です。1937年(昭和12年)ですから、知らない人の方が多いかなあ・・・。

 さて、その「のばせばのびる」をふと口ずさんでしまったのは、67日の宮崎日日新聞の記事を読んだ時のことでした。その見出しには「万里の長城21196キロに 総延長12000キロ増」とありました。唖然、茫然です。

 あの世界遺産である万里の長城を、中国国家文物局が調査したところ、これまで発表されていた8851.8キロよりなんと約12千キロ長い、21196.18キロにのぼることがわかったとのことです。もはや地球の半周以上ではありませんか。「のばせばのびる」と言っても、これはすごすぎますね。

 だけど、人間の可能性だってそれ以上に「のばせばのびる」のではないでしょうか。老健の利用者様はもちろん、老健施設に勤める私たちだって、無限の可能性を秘めていると思います。リハビリテーションを通じて「生活機能の維持・向上をめざし総合的に援助」することを理念と役割としている老健施設にとって、その可能性をのばすことは、使命と言っても過言ではありません。

中国には「後世畏べし(こうせいおそるべし)」という素晴らしいことわざがあります。これは「後世は先生の反対で、後輩、若者。若い人たちはこれから、どんなに出世するか、どんな偉大な人になるかわからない」という意味です(「日本・世界の『ことわざ』おもしろ辞典」、村石利夫、日東書院)。だけど、後世だって先生だって「のばせばのびる」と思います。万里の長城を見習って、みんなでどんどんのばそうではありませんか。そうです!カツレツを食べながら。「のばせばのびる」を歌いながら(^O^)

け、けくりかえしはえるとけ?

 宮崎県において「け」は言葉の前にも後ろにもつけて用いられます。「新宮崎市方言辞典」(江南書房)をひもといてみましょう。

(1)「け」(=けぇ):動詞に冠し語勢を強め、感情を強く表現する。例「ケ忘れた、ケ捨てた」。

(2)「け」:終助詞「か、かい」に相当。例「どんげなるちゃろケ(どうなるだろうか)」。

 

 これを踏まえて、418日付日本経済新聞の目を疑うような記事の話です。「何度も生え替わる毛 再生」という見出しが飛び込んできました。東京理科大などが、マウスを使った実験で、毛包という組織を培養し、自然に生え替わる毛を再生することに成功したというのです。人工植毛でもカツラでもありません。自然の毛です。しかも、周期的に何度も繰り返し生え替わるばかりか、どんどん増やせるそうです。とどめとばかりに「人間の大人でも毛髪を増やすことは可能」との研究チームのコメント。こりゃあすごい(≧◇≦)!この記事を読んで飛び上がった人も少なからずいたのではないでしょうか。10年後には再生医療として実用化したいとのことで、これは何だか世界を一変してしまうような予感がするニュース。「髪の毛が、そんなに何度も何度も繰り返し生えるとは本当だろうか?」と叫んでしまいました。ん?ちょっと待って!プレイバック、プレイバック(゜◇゜)。

 ふと「『髪の毛が、そんなに何度も何度も繰り返し生えるとは本当だろうか?』ということを宮崎弁で語ればどうなるだろう?」という思いが頭をよぎりました。そこで、上記(1)および(2)を用いて作文してみました。それが本日のタイトルです。

 「け、けくりかえしはえるとけ?」。つまり「毛、け繰り返し生えるとケ?」。うーん、ちょっと辛いですね。「毛がいっぱい」という意味を込めて「け」を3回使ってみたのですが・・・。どこが辛いか?それは「け繰り返し」の部分です。「繰り返し」に「け」はつけないですね。それどころか、「けくりかえす」は「蹴くり返す」、すなわち「蹴る、蹴飛ばす」という意味の宮崎弁になってしまいます。というわけで「け、けくりかえしはえるとけ?」は却下。無念。

 それはともかく、特に男性にとって、毛髪との別れを喪失体験の一つととらえれば、そのショックは少なからぬものがあると言えます(個人差があるでしょうが)。それが今回の研究成果によって解決できるとすれば、高齢者のみならず、多くの年代層の薄毛に悩む人にとって、垂涎ものの朗報と言えるのではないでしょうか。

先入観は厄介者

  420日の日本経済新聞、一面の「春秋」を読んで、少なからぬ衝撃を受けました。「ものを見るとき、人を見るとき、先入観ほど愛想のいい厄介者はいない」とあったのです。そして文はこう続きます。「これさえあれば見ずして見たような気になれるのだから」。

 この日の「春秋」は、東京で開かれている「セザンヌ展」がテーマでした。セザンヌは先入観や想像力を嫌い、「色はまるで自分たちが望んでいる通りに、気ままに折り合いをつけていく」というそのままの色を画布にのせ、作品にしていったのだそうです。作品を見ながら「春秋」の筆者は、「いかに自分の目が目の役目を果たしていないか」が身にしみたとのこと。つまり、筆者はそれまで、先入観をもってものや人を見てきた、しかしそれは真にその対象を見たということではなく、見ずして見たような気になっていた、つまり、自分の目が目の役目を果たしていなかったということでした。

 私たち老健施設で働く者にとっても、これはとても重要なことだと思いました。日々の業務の中で、「先入観という愛想のいい厄介者」は、私たちにとりついてはいないでしょうか?利用者と接する時に、相手を「見ずして見たような気」になってはいないでしょうか?もしそうだったらこれは大変です。利用者ひとりひとりに応じたケアができないことはおろか、重大な事象を引き起こす原因にもなりかねません。

 「目が目の役割を果たすこと」。利用者の心身の状態は一人ひとり異なりますし、同じ利用者であっても、その状態は常に同じではありません。さらに、私たちの仕事の一つ一つについても、「これはこういうものだから」という先入観を持って取り組めるものは、何一つありはしないと言えるのではないでしょうか。

 東京の国立新美術館まで行って、実際に「セザンヌ展」を観ることはできなくとも、セザンヌが作品に込めた思いをくんで、日々の業務に役立てたい、そう思った記事でした。

OZAKI

 「若者の代弁者」「カリスマ」「教祖」などと言われたロック歌手、尾崎豊が死亡したのが1992年の425日。そうです。ちょうど20年前の今日のことでした。享年26歳。あまりにも早すぎる死に、多くの人々が衝撃を受けました。ただし、その衝撃は最初若者が中心で、尾崎が言うところの「大人たち」には理解されず、雨の中で泣き、叫び、声をからして「15の夜」を歌う若者たちのその姿に衝撃を受けていた人たちも少なくなかったようです。その後、尾崎豊の人となりや、尾崎が歌に込めた思いなどが、様々な世代の人たちに知られ、受け入れられていきました。

 もしご存命であれば、46歳になっていた尾崎豊。介護保険の第2号被保険者です。「信じられぬ大人との争い」をしてきたと『卒業』の中で歌った彼は、果たして現代の若者にとって、「信じられる大人」となっていたでしょうか?『15の夜』で「100円玉で買えるぬくもり」と歌った「缶コーヒー」も、今では120円になりました。『17歳の地図』で「夢見がちな俺はセンチなため息」をついていた尾崎が『46歳の地図』を歌おうとすれば、相当な地図の塗り替えを余儀なくされ、「”口うるさい大人達のルーズな生活に縛られても”忘れなかった素敵な夢はどこに行ったんだろう」と、やはりため息をついていたでしょうか。「大人の代弁者」となって、中年の悲哀を若い世代に訴えていたでしょうか。

 今となってはそれを確かめる術もありません。しかし、尾崎豊は当時の若者、つまり今の中年層にたくさんの名曲を残してくれました。それらの歌は、この世代の人たちがいくつになっても、きっと心に残り続け、そして歌われていくでしょう。

 早いものであれから20年たってしまいました。今夜は久々に、尾崎の曲をじっくり聴いてみようかな、と思います。

リハビリに貧乏ゆすり?

  48日の日本経済新聞を広げて、驚きと興味の声を上げた方も少なくないのではないでしょうか?「貧乏ゆすりに意外な効能がある」という記事が載っていたのです。ガクガクと際限なく膝を揺すり続ける、あの貧乏ゆすり。「行儀が悪いからやめなさい!」と親から膝をピシャッと叩かれ、厳しく戒められた、あの貧乏ゆすり。その貧乏揺すりが健康に良いというのですから、そりゃあ驚きます。

 記事によると、貧乏ゆすりには次のような効果があるそうです。

 

(1)手足の冷えが改善される

・・・貧乏ゆすりを行うことで、ふくらはぎの筋肉が伸び縮みし、血液を心臓へ送り返すことで全身の血行がよくなる。女性に多いむくみの解消や、エコノミークラス症候群の予防にも役立つ。

(2)変形性股関節症の治療に役立つ

・・・軟骨を培養するときに外から刺激を与えると成長しやすいことから、貧乏揺すりをすることで、軟骨を再生する効果が期待できる。軟骨がすり減って炎症を起こし激痛を生じる変形股関節症の治療に活用できる。

 

 実験や実際の治療を通じて、これらの効果が確認されているそうですから、驚きの一方で、「なるほど」と納得させられます。しかも、この「貧乏ゆすり」、副作用はないとのこと。そしてこれらのメリットがありながらも、貧乏揺すりをするのに「お金がかからない」(そりゃあそうだ)ときたら、これは見過ごすわけにはいきません。

 リハビリテーションの実践を通じて高齢者の在宅復帰を目指し、地域社会での生活の継続をサポートする老健として、「貧乏ゆすり」を日々のリハビリに取り入れてみるのも一考の余地がありそうです。ただし、「貧乏ゆすり」なんて、名称がよくありませんよね。記事には「『健康ゆすり』と呼びたい」との専門家のコメントも紹介されていました。「さあ、みなさん!今から『健康ゆすり』を始めましょう。よーい、はじめー!!」という光景が老健で見られるようになるかもしれませんね。

「”じゅんじゅん”のすすめ!」

 早いもので四月も半ばを過ぎました。多くの老健施設で新人職員を迎え、日々その指導、教育が行われていることと思います。慣れない、初めての職場環境で、ストレスが溜まっている新人もいるのではないでしょうか。

 そんな新人育成の心掛けとして、「”じゅんじゅん”のすすめ4箇条」なるものを提唱したいと思います。

 

「”じゅんじゅん”のすすめ 4箇条」

(その1:『恂恂に!』)

 ・・・まめやかに、真心をもって教えましょう。

(その2:『循循に!』)

 ・・・秩序正しく整然と、穏やかに教えましょう。

(その3:『順順に!』)

 ・・・順序を追って、教えましょう。

(その4:『諄諄に!』)

 ・・・ていねいに、繰り返し教えましょう。ただし、一字で「諄い」だと「くどい」となりますからご注意。

 

 いかがでしょうか。4つともすべて「じゅんじゅんに」と読みます。え?同音異義語をならべただけで、こじつけっぽい!?ご指摘ごもっともです。しかし、案外核心をついているかも(^o^)。ご参考いただければ(あわよくば実践いただければ)幸いです。じゅんじゅん。

 

※参考文献:『読めるようで読めない漢字2500』(一校舎漢字研究会)、『広辞苑』

ついてみマッセ!?

  ビリヤードが大流行したのは、四半世紀以上の前のことでした。各地にビリヤード場ができて、大勢の若者達で順番待ちの状態でした。各地で大会もありました。あのNHK教育テレビでも「ビリヤード教室」が毎週放送され、若者の間でも「昨日の”ビリヤード教室”みたね?」「うん、見た!あの技をさっそく今日ためしに行ってみようや!」などと好評でした。しかしその後、人気は下火となり、ビリヤード場も無くなっていきました。球を上から突いて強い回転を与える「マッセ」という大変高度なテクニックがあったのですが、素人がやると高価なビリヤード台を痛めるためどの店にも「マッセ禁止!!」という張り紙が貼ってあったのも懐かしい思い出です。

 ところが、です。今、高齢者の間でビリヤード人気が再燃してきているらしいのです。330日の宮崎日日新聞に「高齢者に人気 ビリヤード 快感味わおう」という記事が載っていました。認知症予防にも効果がある、というのです。

 記事では、東京の有料老人ホームで開かれているビリヤード教室で、熱心に玉を突く高齢者の様子が紹介されていました。車椅子に乗ったまま、肩の高さで突く人もいるとのこと。

 高齢者がビリヤードをすることの効果として、専門家のコメントが紹介されていました、それによると、

(1)介護予防の基本である「足腰」と「身体のバランス機能」を鍛えるのに最適・・・

これは、太ももやふくらはぎなどの「抗重力筋」が鍛えられるだけでなく、球を突くときのダイナミックな動きで、身体のバランス機能の強化にもつながる

(2)球の全体の配置に気を配りながら、どのように落としていくかを考える過程が、認知症の予防になる

ということでした。うーん、なるほどφ(..)メモメモ。

 ビリヤードの魅力といったら、やはり球をカコーンと突いて、それが別の球にカキーンと当たって転がって、そして穴(ポケット)にスポッと入る時の快感でしょう。それが意図したコース通りだったら、最高ですし、そうでなくてもあたかも狙って突いたかのように決めのポーズをとったりしたものです。

球を突くことで、杖を突かなくてもよいくらい身体機能が向上したら、キュー(球を突く棒)を背中にしょって、さっそうと歩く高齢者の姿を見かけるようになるかもしれません。おまけに認知症の予防になって、生き甲斐にもつながれば、その一石二鳥、いや三鳥になるかもしれませんね。老健のリハの一環としてビリヤード、略して老健リハビリ、いかがなものでしょうか(^o^)

 

おぼろ月夜

 

 

oborodukiyo.jpg 

 「菜の花畠に入日薄れ 見わたす山の端霞ふかし 春風そよふく空を見れば 夕月かかりてにおい淡し」。老健の利用者様がご存知の春の歌ベスト3に入る(かもしれない)名曲がこの「朧月夜」です。

 「朧(おぼろ)」を広辞苑で引くと、最初に「はっきりしないさま。ほのかなさま。薄く曇るさま。ぼんやり。ほんのり。朦朧(モウロウ)」とあります。いずれもクリアーなイメージとは対極にあります。しかし、日本人にとっては、これがいいんです。「日本人はハッキリしないネ。あいまいはダメよ。はっきりしなさい!おぼろはNo!!ね(`ヘ´) 」と他国の人から言われたとしても、朧昆布、朧豆腐、朧饅頭、そしてこの朧月夜、いとおかし、です。

 それにしてもこの「朧月夜」の歌詞はなんとも素晴らしい叙景詩だと思います。特に2番がしびれます。と言っても、5つの風景(うち2つはがそれ発する音)を並べただけなのです。つまり、

(1)里わの火影(ほかげ)

(2)森の色

(3)田中の小路(こみち)をたどる人

(4)蛙(かわず)のなくね

(5)かねの音

これらを列挙し「それがどうした?」と疑問を抱かせておいて、最後に・・・

「さながら霞める(かすめる)朧月夜」

と締めくくっているわけです。ちなみに、この場合の「さながら」は「のこらず、すべて」という意味で用いられていると思います。こいつはやられた!です。結句に至るまでに、それぞれの様子を想像させておいて、これらをいっきに霞めてしまうのですから。そして改めてこれら5つの姿を思い浮かべ直す作業をするうちに、この曲の素晴らしさを再認識し、春のこの時期の「朧」な美しさに心を打たれてしまいます。単に視覚的要素だけでなく、「蛙のなくね」、「かねの音」という聴覚を刺激する要素も入れ込んだところがまたいいです。作詞された岡野貞一氏の思う壺にまんまとはまって、心打たれてしまいます。

 44日の朝日新聞に、「Jポップ歌詞 瞳閉じすぎ? 目立つ紋切り型に批判も」という記事がありました。最近のヒット曲には、「あれ、このフレーズ、どこかで聞いたような」というのが増えているのではないか?と問題を提起する内容でした。

 

 

DSCN2010.JPG せっかくの春のこの時期、みんなで「朧月夜」を歌いつつ、その歌詞の素晴らしさを堪能しながら、これから日本の音楽はいかにあるべきか、考えてみてはいかがでしょうか。

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