雑談

応援してます研究大会(^^)/~~~

 

 

DSCN1368.jpg 僕の名前はスライド映写機。スライドプロジェクタともいいまーす。しかもライカだよ、アマチュアカメラマンなら誰もが憧れるライカだよ(o ̄∇ ̄o)♪リバーサルフィルムで作られた「スライド」を大きなスクリーンに拡大投影する装置だよ。え?知らない?そんなぁ( ̄□ ̄😉

 10年くらい前までは、いろんな学会の会場で、僕はいなくちゃならない存在だったんだ。主役になることは絶対にないんだけど、最優秀助演男優賞くらいはもらってもおかしくなかったはずさ。僕がおなかの中に「スライド」を一枚ずつのみこんで、「ファイアービーム」と叫び・・・たくなるをぐっと我慢して、強烈な光線をスクリーンに発射するとあら不思議?(o)/!発表者が一生懸命作った、だけどちっちゃなスライドが、スクリーン一杯に拡大されて映し出されるのさ。そして会場のみんながそれに注目するんだ。その瞬間が最高に気持ちよかったなぁ。

だけどうっとりしてはいられない。聞き耳を立てておかなくちゃいけないんだ。発表している人がいつ「次のスライドお願いします」と言うかわかんないからね。それが聞こえた途端、僕はお中からスライドを吐きだして、次の1枚をサッとのみ込むんだ。そしてやっぱり「ファイアービーム」、なんて言わない。だって僕は最優秀助演男優なんだから。次の1枚にみんなの視線が集まれば、それで満足なのさ。

 

 

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      (横から見たところ。ここにスライドをセットしたんだ)

 

そんな僕だけど、ここんとこすっかり仕事がなくなっちゃったんだ。聞くところによると、コンピュータの技術が進歩して、「パワーなんとか」というやつがポイントを稼ぎ、羽振りを利かせているらしい。そいつのすごい所は、スライドをいちいち飲んだりはいたりしないこと。おまけに「次のスライドお願いします」なんて言わなくてもいいんだ。コンピュータにはネズミがつながれていて、そいつの左耳をチョン、とするだけで次のスライドになるんだ。しかも、その変わりかたがすごくって、上下左右、はたまた斜めから次のスライドがスーッと滑り出てきたり、真ん中からびょーんと出てきたり、パラパラ出てきたりクルクル出てきたり、ぴょんぴょんだったりキラキラだったり・・・。あんな芸当、さすがの僕にも不可能さ。寂しいけど、僕も引退だよ。

そんな僕だけど、いよいよ明後日、つまり316日に迫った9回社団法人宮崎県老人保健施設協会研究大会は応援してるよ。この大会も年を追うごとに内容が充実してきて、今回は過去最高の39の演題が発表されるらしい。実はこの大会も、最初の頃は僕が活躍してたんだ。もちろん助演男優としてね。白い手袋をした「スライド係」という人が、それはそれは大事に僕を取り扱ってくれて、「ああ、介護の達人って、こんなに丁寧に機械を扱ってくれるんだ。老健を利用している人はもっともっと行き届いたケアを受けているんだろうなあ」って、感動したのが、つい昨日のように思い出されるよ。

聞くところによると、この9回社団法人宮崎県老人保健施設協会研究大会、事前に申し込んでいなくても、当日飛び込みでも参加OKなんだって。昨日、そしておとといのブログにそう書いてあったよ。僕の出番はないけれど、この際宮崎市の宮崎観光ホテルで開かれる9回社団法人宮崎県老人保健施設協会研究大会に飛び込み参加しちゃおうかな?なーんてね。発表される39人の皆さん、僕はお役に立てないけれど、「パワーなんとか」を使って、落ち着いて発表してくださいね。応援してまーす(^^)y-.o

老いの春

 「老いの春」という言葉があります。広辞苑には「(1)老後の春。また、晩春。(2)正月の祝い言葉。年をとって迎える新年を祝う」とあります。

 特にこの(2)の意味で使われる「老いの春」が好きです。それは、「老いる」ということを前向きに捉えているからです。「老練」、「老巧」、「老熟」、「老成」など、「老いる」ことをポジティブな意味合いに用いている言葉は色々ありますが、春の足音が聞こえて来るこの時期には、「老いの春」という言葉が思わず浮かび、心にお日様が当たって、ポカポカあったまるような、そんな気持ちになってきます。

 「誰しも老いるのはいやだが、それは長生きするための唯一の途(みち)なのだ」と言ったのは、フランスのノーベル賞作家、アナトール・フランス(『生きるヒントになる名語録728』、三笠書店)。洋の東西を問わず、「老いる」ことは決してネガティブなことばかりではないと説いている言葉に触れるにつけ、「そうだそうだヽ(^o^)丿」と合いの手を入れたくなります。

 ついでながら付け加えますと、モータリゼーションの現代社会。「老いる」が無くては自動車は言わずもがな、それだけではなく電車も飛行機も、自転車だって錆びついて、やくせんごつなります(=”役に立たなくなってしまいます”の宮崎弁)。そうです!錆を防ぎ、潤滑するために、「老いる」がなくてはだめなのです!絶対必要不可欠なのだぁーっ?(o)/!!・・・って、それはもしかして「オイル(oil)」のこと!?・・・<(_ _)>。お後がよろしいようで。

木の芽起こし

  「木の芽起こしですなあ」と女性の利用者が言われます。ここのところ、降ったりやんだり。何となく気持ちも滅入ってしまいそうになる風景だけど、「木の芽起こしですなあ」と耳にしながら眺めると、全然違った景色に見えてしまうから不思議です。

「一雨ごとに春が来る」とも言うように、木の芽にとっては恵みの雨。今日から3月。もうすぐ桜も咲くことでしょう。そう思うと春雨の一粒、一粒さえいとおしく思えてきます。

 超早場米の産地である宮崎県。稲の種まきも始まりました。季節は少しずつ、だけどしっかりと春に映りつつあるようです。

 それにしても、人生の大先輩の言葉はなんと洞察と含蓄に満ちあふれていることでしょう。「木の芽おこしですなあ」と言われて、春雨にしんみりとなった心をシャキッとたたき起こされた気持ちです。

「高齢者」は何歳から?

 「時の過ぎゆくままに」この身を任せた沢田研二、当年とって64625日生まれ)。「時間よ止まれ」と歌った矢沢永吉、同じく63914日生まれ)。そんな二人ですが、時は等しく流れました。しかし、共に還暦を過ぎてもなお現役バリバリ!その歌声、その人気に衰えはありません。そんな二人を、はたして再来年には「高齢者」と呼べるのだろうか?相当な違和感があるなあ・・・。そう思っていた矢先の事、222日の日本経済新聞にその記事は載っていました。政府は65歳以上を一律に「高齢者」と位置付ける現行の定義の見直しに着手するとのことです。

 「『高齢者=65歳以上』見直し」という見出しのその記事によれば、元気に働くシニアも多い現状を踏まえ、高齢者も可能な限り「支える側」に回る考え方を打ち出すとのこと。そもそも65歳を「高齢者」としたのは、1950年代に国連が65歳以上を統計で区分したことが影響しており、それから60年経った今、日本のそれは現状にそぐわなくなっており、60歳以上で「自分を健康だ」と思っている人の割合は65%に上り、65歳までに働くのをやめたいという人は29%にとどまっているとのことです。

 政府の有識者検討会がまとめる報告書で、社会に支えられる「高齢者」の見直しを提起し、政府が5月をめどにまとめる「高齢社会対策大綱」では、「高齢者」とみなす年齢の引き上げは示さないものの、健康や所得など実態を踏まえて諸制度を柔軟に見直すよう求める見通しなのだそうです。

 そうだよなあ、ジュリー永ちゃん「おじいちゃん」などと呼ぶには、まだかなりの抵抗を覚えるもんなあ、そう思っていただけに、今回の見直しはそんな時代の要求に応えたものかもしれません。65歳を過ぎても「支える側」に回ることは、現役世代の負担を軽減するばかりでなく、そのこと自体が生きがいにつながるのではないでしょうか。

 当のお二人はどうおっしゃるでしょうか。沢田研二「勝手にしやがれ!」と言い捨てるかなあ?矢沢永吉「アイ・ラヴ・ユー、OK!」と受け入れるかなあ?うーん。

仕事の原理

  物理学の世界において、「仕事の原理」なるものがあります。『広辞苑』には「道具を使うと小さな力で仕事をすることはできるが、仕事の総量は不変であるという力学上の基本原理」とあります。餅は餅屋、というわけで『四訂版例題と演習物理?』(数研出版)を開くと、実に含蓄のある表現がなされていました。

 「物体を引き上げるとき、機械を使って必要な力を小さくすることはできるが、仕事で得をすることはできない」・・・。うーん(-_-)。物理学的に見れば当たり前のことですが、私たちの仕事に当てはめて考えると、洞察に富んだ、実に深い言葉に思えます。

 介護関連用品には様々な便利な機械や道具があり、それもどんどん新しい物が開発されています。これにより、介護負担がうんと軽減されるものも少なくありません。ただし、それを使うのは生身の人間!そしてその対象も介護を必要とする生身の人間なのです。物理学における「仕事の原理」を老健施設におけるそれに代入すると、「機械や道具を過信し、相手の心身の状態をよく考えずに、心を持たずして使っても得をすることはできない」と読み替えることができるのではないか?と思うのです。

 道具を適切に用いながら、身体的負担が減り、時間短縮が図れたならば、その分を「目かけ、声かけ、心がけ」に費やすことが、「老健施設における”仕事の原理”」と言えるのではないでしょうか。

やまいもをほる

  「やまいもをほる」というのは宮崎の方言です。「あん人はまたやまいもを掘りよるが」などと使われます。『改訂版みやざき観光・文化検定公式テキスト』(宮日文化情報センター)によれば、「酔ってくだをまくこと。酔って他人にからむ。またそういうことをする人を『ヤマイモホリ』と表したりする」とあります。あまり良い意味には用いられないですね。

 たしかにヤマイモ(山芋)の茎は、ほかの何かに(左巻きに)からまって伸びていきます。酔っ払って他人に絡む姿もそれに似ていると言えば似ています。しかし、「やまいもを掘る」となると、これはまた別な意味合いが出てきます。あの円柱状で、地中深く長く伸びる山芋のイモ(塊根)を掘るためには、同じ所を何度も何度もしつこく、くどくどと掘り下げていかなくてはいけません。途中で油断するとせっかくのヤマイモがポッキリ折れてしまいます。大変な作業ですので、ヤマイモの塊根のような根気、そしてとろろ汁のごとき粘り強さが要求されます。

 そのような事から、(酔って)同じことをくどくどと繰り返して、他人にからむことを「やまいもをほる」と形容するようです。確かに言い得て妙なる表現だと思います。しかしその反面、あの美味なるヤマイモに申し訳ない気もします。ヤマイモが聞いてたら「オレ、そんなんじゃねえよ!」「わたしのこと、酔っ払いと一緒にしないでよ!」(注:ヤマイモは雌雄異株です)と絡まれそうです。これぞ「ヤマイモがやまいもをほる」ということになるかも。

 現在市場に出回っているヤマイモは、しつこく掘り下げて採る天然のものではなく、畑にパイプを水平に埋め、その中で栽培する方法がとられているようです。ヤマイモ(というか畑イモ?)は横に伸びていきますから、「やまいもをほる」作業は、くどくなく、しつこくもありません。ですからこの際、酔って他人に絡む方の、迷惑な「やまいもをほる」というのもやめてはどうでしょうか!?郷土が生んだ国民的歌人、若山牧水も「酒はしづかに のむべかりけり」と詠んでいるではありませんか。

 

研修会を開きました(西都市ケアマネ連絡会)

 

 

IMG1324.jpg 西都市介護支援専門員連絡会(小野 美穂子会長=菜花園事務長)は213日、西都市総合福祉センターで研修会を開きました。

 同連絡会では会員相互の連携強化と資質向上などを目的に様々な活動を行っており、今回は講師にHealing forest(癒しの森)の代表で、社会福祉士の明石二郎さんを大分県から招き、「福祉の専門職としての価値と倫理 ?自分が利用したケアを考える・つくる・とりくむ―」と題し、講演をしていただきました。

 同市内の老健施設等の職員44人が受講。福祉サービスの理念や職業倫理などについて、事例検討を交えながら学び、福祉従事者としてプロフェッショナルであるためには、どうあるべきかを考える貴重な研修会となりました。

猫脚だにゃあ

  いやあ、すごかったですね。25日に行われた別府大分毎日マラソン。お笑い芸人でカンボジア国籍の猫ひろしさん、もとい!猫ひろし選手2時間3026という、自己ベストを7分も短縮する快走でフィニッシュしました。

実業団選手のレベルとして見れば、大した記録とは言えません。しかし、市民ランナーのそれとしてみれば、驚異的なものです。1キロあたり33391のペースを42.195キロずーっと続けるわけですから。市民ランナーの尊敬と羨望のまなざしを浴びる”サブスリー”、すなわち3時間を切る人でさえ、全市民ランナーの1%程度しかいないのに(これは1キロ415秒ペースです)、それより30分近く早いタイムだにゃあ、です。

テレビで観戦した猫選手の姿は、周囲の選手よりもひときわ小さいのですが、そのフォームは何とも綺麗で、ダイナミックでした。しかも沿道で応援する人達に手を振って、「ニャー、ニャー」と鳴きながら(?)のスマイルラン。さすが芸人!これは実業団選手にはできる芸当ではありません。もっとも、本業の「お笑い芸」がおもしろいか否かは別問題ですが(^_^;)・・・。

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 さてさて、突然ですが、写真は和室用のテーブル。すなわち「座卓(ざたく)」です。どうして急にこんな話をするのかって?実は猫ひろし選手と深―い関係があるのです。この座卓の脚の部分にご注目下さい。

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 ここの名前、ご存知でしょうか?案外知られていないかもしれないこの座卓の脚の名前は何かと申しますと・・・・・ドロドロドロドロドロドロ(ドラムロールの音です)・・・ずばり、「猫脚」だにゃあ!”ねこあし”と読みます。広辞苑をひもとくと、「(1)膳や机の脚の形状の一。上がふくらみ、中がややすぼまり、下が円くて低く、猫の脚に似たもの」とあります。いかがでしょうか?何となく猫の脚に見えてこないでしょうか?えっ?ミッキーロークのパンチに見える!?((+_+))このほか、「(2)猫のように足音を立てないで歩くこと」という意味も併記してあります。

 しかし!!この『広辞苑』でさえも、あの猫選手の激走を目の当たりにした今、加筆を余儀なくされるかもしれません。すなわち、「(3)お笑い芸人、猫ひろしが”ニャー、ニャー”と鳴き、周囲に手を振りながらフルマラソンを疾走する様子およびその脚力。(4)小さくても大きく元気で楽しい走りで、人々に希望と感動を与える様子」と。

 果たして広辞苑の「猫脚」の記載が変わるか否か!?それは猫選手がカンボジア選手とてロンドンオリンピックに出場するかどうかにかかっている・・・かにゃあ?それはともかく、今後の同国の選手選考の成り行きに注目したいです。

「貰っといてやる」の真骨頂

  21日の朝日新聞文化欄は、このたび芥川賞を受賞された、田中慎弥さんの記事でした。「喜ぶ前に周囲にさらわれ 流された」という見出しがありました。候補に上がること5回目での栄誉でしたが、嬉しいというよりも、半ば不機嫌で記者会見に臨み、あの芥川賞を「もらっといてやる」と公言。周囲の関心を独り占めしていました。この発言部分、さすがにNHKのニュースでは、最初のうちカットされていました。

 この発言や、一風変わった(?)ライフスタイルから、作品そのものではなく、作家である田中さんの人物像ばかりにスポットが当たることとなり、少なからぬ違和感を抱いていた矢先に、今回の記事。「新聞やテレビの取材というのはどうして作品ではなく作家個人のことを訊きたがるのだろう」との記述があり、田中さんご自身もやっぱりそう思っておられたんだなあ、と納得しました。

 この記事で感銘を受けたのは、田中さんが「作家人生を芥川賞で終わらせたくない」と述べていたところです。この文の直前には、「見も知らない人からよかったですねと言われるよりは、どこかにいる目の肥えた読者から作品の不備を指摘されることの方が、私にとっては重要だ」。すごい!こんな発言、とても真似できません。だけど、これが田中さんの偽らざる気持ちなのだと思います。本人がそう願わずとも、「芥川賞作家の」という定冠詞は、この先ずっとついて回る。「先生」とあがめ奉られる。その事で慢心したくないという気持ち、そして往年の大文豪、二葉亭四迷と志を異にし、「文学は男子一生の仕事なり」と、これからもずーっと書き続けて行きたいという気持ちの表れなのでしょうか。スポーツの世界では、頂点を極めた後、心にぽっかりと穴が開いて、やる気が萎えてしまう「燃え尽き症候群」が言われていますが、田中さんのこの言葉を聞くと、読書好きにとっては「よくぞ言ってくださった!」と拍手喝采したい思いです。

 ところで、芥川龍之介を記念し、昭和10年から始まったこの芥川賞ですが、もしも龍之介があの世から「河童」の神様を従えて現世にやって来て、「これこれ田中君とやら。お前に吾輩の名を冠した”芥川賞”を授けようと思うのだが、果たしてお前にこの賞を受けとる意思はあるや?」と訪ねたらどうなるだろう?と、この受賞インタビューを見ながら思いました。これに対して、「(候補に上がるのは)今回が5回目ですから、断るのが礼儀なのでしょうが、私は礼儀を知らないので、もらっといてやる」と答えたとすれば、龍之介は「ほほぉーっ、こいつは愉快痛快!まるで吾輩のような奴が出てきたぞ。平成の文学界は面白くなりそうだ!」と大喜びして、河童の神様とハイタッチをするのではないか、と想像して楽しくなってしまいました。

 記事の最後は「もし芥川賞を私がもらうことに少なからず興味を持つ人がいるなら、大変偉そうだが私の過去の作品も読んでほしい。いや、(中略)文学史に残る大作家の名作を読み、改めて田中の作品に戻り、私の水準が低いことを確認するといい。そんなめんどううなこと、誰もやらないか」と締めくくってありました。いえいえ、誰もやらないはずはありません。私を含め、きっと多くの人がそれをやることと思います。中には「読んでおいてやる」などとのたまう強者もいるかも。ただし、「水準が低い」と思う人がいるかどうかははなはだ疑問ですが・・・。いずれにせよ、本を読む楽しみがまた一つ増えました。

「なんでも」ということ

「子どもを不幸にする一番確実な方法はなにか。なんでも手に入れられるようにしてやることだ」と言ったのはフランスの思想家ルソーだそうです(『いい言葉は、いい人生をつくる』斉藤茂太著、成美文庫)。

 18世紀を生きたルソーが、まさか21世紀の日本にタイムマシーンでやって来て、モノにあふれかえっている様子を垣間見て、「オーッ!ジャポーンの子どもたちはこれじゃあ不幸になってしまいますことネ」と心配して、この言葉を遺したわけではないのでしょうが、現代の日本の暮らしは、本当に便利になりました。

たとえば通信。その昔、そのまた昔、もっと昔。新聞社では「伝書鳩」が飼われていた事がありました。通信手段が無い現場から、記者が書いた原稿を届けるためです。優れた帰巣本能を利用して、脚にはめた小さな筒に入れた原稿を、新聞社までポッポと飛んで届けていたのでした。戦時中にも活躍した伝書鳩。すごいやつです。偉い!!

それが今ではスマホでポーン、です。写真も動画も音楽も、お金だって指一本でなんでも即座にポーン、です。こっちもすごいです。偉い!だけど、スマホを忘れて家を出たらお手上げです。落としでもしたら一大事です。通信障害なんぞ発生したらパニックです。すごく便利なものは、すごく不便な事態を容易に引き起こしかねないという側面をはらんでいるわけです。

子どもの遊びも変わりました。伝書鳩がポッポと活躍していた頃、男の子の遊びの必需品と言えば、「肥後守」。”ひごのかみ”と読みます。”ひごまもる”ではありません。広辞苑にもちゃんと「小刀の一種。折込式で柄も鉄製、「肥後守」と銘を入れる」と明記されている、由緒あるアイテムです。これ一本で豆鉄砲を作ったり、弓矢を作ったり、秘密基地を作ったり、と色んな遊び道具をクリエイトしていました。教えたり、教えられたりしながら。それらを使ってやる遊びもこれまた手作り。友達同士でルールを決め合って、それに従って遊んでいたのです。学校にも普通に持っていって、休み時間に鉛筆を削っていました。肥後守一本で、いろんな夢や想い出を作り上げてきたわけです。もちろん、今の時代に、肥後守をポケットに入れて持ち歩いていたら、大変なことになりますが・・・。

これに対して、今はゼロから遊びを創造し、その過程をも楽しむというのではなく、高度に創造され、完成された遊びを楽しむという側面が強くなっているように思います。遊びに限らず、様々なものが、なんでも簡単に(ただし、お金は要ります)手に入るようになった今日ですが、冒頭のルソーの言葉が、ふと頭をよぎった次第です。この時代の先に、どんな未来が待っているのだろうか?と。

さて、自立支援型介護、すなわちリハビリテーション介護を旨とする老健施設において、「あるがままの介護」、換言すれば、「なんでもしてあげる介護」が、利用者のためにならないことはご周知の通りです。その点において、ルソーの言葉を借りれば、「高齢者を不幸にする一番確実な方法はなにか。なんでも介護してやることだ」とは言えないでしょうか。「なんでもしてあげる介護」は、精神機能、身体機能ともに低下の一途をたどる危険性を内包しています。できることは自分でしてもらいながら、できないところは手助けする。また、工夫することにより自分でできるのであれば、その工夫をすることが大事です。また、できないのであれば、なぜできないのか?その原因を多角的な視点から探っていく事が重要であり、そのためにも、他職種によるチームアプローチが不可欠となってきます。

なんでもないような「なんでも」という言葉。しかし実際は決してなんでもなくはないんじゃないかなあ、と思った次第です。

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