雑談

:「生きるとは、死と直面して戦うこと・・・」

生きるとは、死と直面して戦うことである。そこに真の生き甲斐がある。」これは、芸術家、岡本太郎氏の言葉だそうです。今年生誕百年を迎え、今またその作品や功績、そして生き様に脚光が当てられていますが、この言葉は重い。ズシンと胸に響きます。

 生きとし生けるものであれば、この世に「生」を受けたものであれば、決して避けることはできない・・・それが「死」です。生と死は背中合わせ。だけど、世の中が平和で、そして心身が健康だと、ついそのことを忘れてしまいがち。しかし、「死」は消え去ったのではない。いつでも背中合わせ。だからといって、やみくもに死ぬことを恐れよ、というのではありません。そうではなく、死が必ず訪れるからこそ、生きている事の素晴らしさを、いつ何時も忘れてはならない、生きている今、この瞬間を、いかに生き生きと生きるか、それが大事なのだ、と思うのです。

 岡本太郎氏の代表作品と言える、「太陽の塔」は、1970年の万国博覧会の時に作られた作品です。それから40年余りが過ぎましたが、今なお多くの人々が訪れ、見る者に深い感動を与えています。その斬新なデザインは、単に奇をてらったものではなく、まさに死と直面し、そして戦った過程を経て生まれたのだと察し、改めて岡本太郎氏のすごさに心が震えました。

 老健で働く者として、私たち自身が生き甲斐をもって仕事に励むのはもちろん、なによりも、利用者様が日々生き甲斐を感じて過ごしていただけるよう努めなければならないと思います。未来は早足でやって来て「今」になり、「今」は一瞬で過ぎ去って「過去」になり、「過去」はいつまでも「過去」のままである・・・。それゆえになおさら、今生きている事の素晴らしさ、命の尊さを、決して軽んじてはいけないのだ、と思いました。

明けの明星

 昨日は暑い夏至となりました。読んで字のごとく、一気に夏に至ったような蒸し暑さでしたが、体調には十分気をつけましょう。

 さて、今日の未明から明け方にかけて、明けの明星、金星がひときわ美しく輝いていました。太陽と月の次に明るいのが金星。一等星の170倍の明るさと言いますから、なるほど!です。しかし、金星が自ら光っていない事はご周知の通り。月と同様に、太陽の光を反射して光っています。太陽系において、地球よりも内側を回っているため、つまり、地球を挟んで、太陽の反対側に金星が来ることは決してないため、真夜中に見えることはありません。 したがって、夕方か、明け方しか見えません。夕方見えれば「宵の明星」、そして明け方見えれば「明けの明星」となります。そして今、金星は「明けの明星」となって東の空(宵の明星だと西空です)に輝いているわけです。

 明けの明星は朝日を連れてきます。今から昇ろうとする太陽の光を受けて輝いているわけですから、「もうすぐ朝日が昇るぞー!」と言っているか、はたまた、金星自らが、「よっこらしょ、よっこらしょ」と、朝日を引っ張り上げているような、そんなふうに見えてしまいます。

 「明けない夜はない。朝は必ず来る」などと言いますが、この明けの明星を見る時、本当にそうだなあ、と感じずにはいられません。もうすぐ2011年も折り返し。今、日本は本当に大変な状況ですが、皆が力を合わせて、きっと乗り越えられる・・・。そう信じて、今日も頑張ろう、と思います。あと一ヶ月くらいは、明けの明星、金星を見ることができるはずです。いつもより早起きして、東の空を見上げてみてはいかがでしょうか。

今日は夏至。

 今日は夏至。一年で最も昼間が長い日となりましたが、気がつけば今年ももうすぐ半分。例年にもまして、時の流れが早く感じてしまいます。東北地方も梅雨入り。復興への歩みに遅れがでないように願って止みません。また、降り続いた雨に変わって、強い日差しが降り注いでいます。利用者様の健康管理にも、万全を期しましょう。

 「お知らせ」のページに、当協会の本年度事業計画をアップしました。ぜひご一読いただきますとともに、協会へのますますのご理解、ご協力方お願い申し上げます。

災害への備え

616日付け朝日新聞に「特養 失われた13人の命」という記事が掲載されていました。津波の被害もなく、避難所に移ったわけでもない宮城県の特養で、東日本大震災後の半月に、60人の入所者のうち、13人の高齢者が相次いで亡くなられたというのです。

 地震の後、入所者全員を食堂に集めて目配りをしながら、3日分の備蓄しかない食料を12回に切り替えて対応。屋外が氷点下に冷え込む中、施設は停電。灯油ストーブと厚着、段ボールでしのぐものの、死者が加速度的に増えていき、家族とも連絡がとれない。「なぜ次々と逝ってしまうのかとパニックになりそうだった」という生活指導員の言葉が胸に刺さりました。また、医師からの提言として、災害時に高齢者の生命を奪う危険があるものとして、肺炎、低体温症、脱水の3つが挙げられていました。そのリスクは、特養も老健も同じだと思います。

読みながら辛い気持ちで一杯になりました。それと同時に、この惨劇から私たちは学ばなければならないのだ、と強く思いました。様々なリスクを抱えながら、一生懸命生きておられる利用者お一人、お一人を守っていく責務の重さを再認識しました。

 昨日からの激しい雨は、県内各地に被害をもたらしています。「もたらしました。」と過去形では言えません。今は穏やかな天気ですが、週末からはまた雨が強まるとの予報、油断できません。災害への備えに万全は無い、と思います。より一層、気持ちを引き締めなければ、と考えさせられました

ストトン節

 「ストトン ストトンと通わせて・・・」で始まる「ストトン節」は、大正13年の歌です(添田さつき 作詞・作曲)。利用者様と接する中で、いろんな曲を歌うのですが、この「ストトン節」、ほとんど全員の方がご存知なのには驚きです。100曲以上ある私の懐メロレパートリーの中で、知名度ナンバー1ソング!と断言してもいいのではないか、と思うほどです。

 歌詞の内容は、身勝手な男の振る舞いをとがめる女心・・・と言うと、悲壮感が漂いそうですが、この曲を聴くと利用者様は男女を問わずみんなニコニコ。そして一緒に「ストトン ストトン・・・」と笑顔で歌われます。おまけにこの曲は四分の二拍子。つまりマーチソングでもあるわけで、一緒に歩く練習をしたり、体操をしたりするのに非常にリズムとテンポが良い曲です。心を動かし、口を動かし、そして身体も動かす魔法の歌・・・つまり、「リハビリソング」と言えるのではないでしょうか、この「ストトン節」は。ぜひ一度お試しあれ。

 それにしても、「誰でも知っている一曲がある」というのはうらやましい事かもしれません。今から、50年後の老健で「さあ、みんなで一緒に歌いましょう、平成21年の思い出の名曲、”○○○○○○○”です。イチ、ニ、サン、ハイ!」と言われて、一斉に口ずさめる歌があるのかなあ?と少し心配です。

 もちろん、今でも良い歌がたくさんあります。ただ、良い歌がとてもたくさん、ひっきりなしに、次々に、続々と、出てくるものですから、覚えられない(涙)。花と歌に満ちあふれた生活は、心が豊かになるような気がしますが、あふれすぎなのもどうなのだろうか?と、ふと考えてしまいました。ストトン、ストトン。

五月晴れ

  おとといの夜から、昨日の午前にかけての宮崎市は、梅雨時とは思えないほどの快晴!特にお月様の美しかったこと!思わず見とれてしまいました。この、「梅雨の晴れ間」のことを、「五月晴れ(さつきばれ)」と言うのだそうです(『広辞苑』より)。もちろん、「五月の空の晴れわたること」も読んで字のごとく、「五月晴れ」と言いますが、六月になった今頃にも「五月晴れ」というのは案外知られていないのかもしれません。それにしても、本当に爽やかなひとときでした。

 そして、今日はまた。本当なら、明日の明け方は皆既月食。すばらしい天体ショーが楽しめるところなのですが、予報は雨。期待薄ですね。

 それはしかたないとして、老健施設に勤める者として、この時期に注意しないといけないことは色々あります。感染症や食中毒予防、転倒防止・・・気が抜けません。そして、雨が続けば、気分もしけって滅入りがち・・・。メンタル面への配慮も忘れてはいけませんね。そんな中、本県出身のプロ野球選手である寺原隼人投手(オリックス)が、昨夜は大活躍の6勝目!寺原選手を見習ってスカッと全力プレーを心がけたいと思います。

「端座位」のすすめ!?

「利用者の〇〇さんがベッドで端座位(たんざい)になっておられました」などと表現することがあります。そのまま読めば、「はしっこにすわる」。椅子にちょこんと座る時にも、そう言ったりする方も多いのではないでしょうか。この「端座(坐)位」。一般には馴染みの薄い、いわゆる私たちの「業界用語」みたいにも思えます。

 ところが、『広辞苑』をひもとくと、ちゃんと「端座」の文字。でも、意味は「?姿勢を正して座ること。正座」。私たちが使っているのと、何だか違うようです。不思議に思って「端(タン)」を調べてみると納得。そこには「きちんとしていること。正しいこと」という意味と、「はし。さき」という両方の意味が併記されていました(このほか、「はじめ。糸口」という意味もありました)。なるほど。はしっこに座るのも、正座をするのも、どちらも「端座位」と言っていいのかも。

 いずれにせよ肝心なのはその座り方だと思います。高齢者の座り方でよく見られるのがいわゆる「仙骨(せんこつ)座り」。横から見ると、骨盤が後方に倒れ、背中は曲がっている座り方で、背もたれが無くては、座っていられない場合もあります。この「仙骨座り」、決しておすすめできるものではありません。食事の時にテーブルの奥のおかずが取りにくかったり、車椅子がこぎにくかったり、はたまた腰痛や床ずれの原因になったり、さらには呼吸もしにくくなって、気分も滅入りがち・・・。「仙骨座り」は、”百害あって一利なし”と言ってもよいのではないでしょうか。したがって、「姿勢を正して座る」という意味での「端座位」をすすめていくことが大切なのではないでしょうか。

 と、ここまで述べてきましたが、『広辞苑』の「端座」の記載にはまだ続きがありました。それはなんと、「?何事もせずにすわること。茫然と日を暮すこと」。つまり「気抜けして、ぼんやりとして暮らすこと」も「端座」と言うのだそうです。こっちの「端坐位」はおすすめできません。利用者様が心身ともに充実した日々を過ごせるよう、そして、決して「茫然(ぼうぜん)と過ごされる」ことの無いよう、私たちのやるべきことはたくさんあるのだ、と再認識しました。

 それにしても、すすめるべき「端座位」と、すすめるべきでない「端座位」があるなんて。この「」という字の持つ意味の広いことには驚きです。まさに「両極端」なんだなあ、と思わざるを得ませんでした。たんたん。

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