人間はだれしも、自分史というステージの上では主人公です。このことはその人の一生涯にわたって不変であり、自分史の中で自分が脇役になることはありません。一方、無限に広がる宇宙中空間、そして読んで字の如く、天文学的な時間の流れの中では、人間の一生というものはあまりにもちっぽけで、一瞬とも呼べないほどに短いものと言えるでしょう。
たしかにそうかもしれませんが、人生はかけがえのない素晴らしいものです。自分史というステージの上で、人はさんぜんと輝くスポットライトを浴びるのです。その人だけのための光を・・・。そして、そのステージで演じられる、自分史というただ一度きりの輝かしいストーリーは、誰一人として同じものではありません。
クアジーモドという人をご存じでしょうか。1951年にノーベル文学賞を受賞した、イタリアの詩人です(1901-1968)。そのサルヴァトーレ・クワジーモドの代表的な作品が、表題の「そしてすぐに日が暮れる(ed è subito sera)」です。
Ognuno sta solo sul cuor della terra
trafitto da un raggio di sole:
ed è subito sera.
人はみな独りで地心の上に立っている
太陽のひとすじの光に貫かれ、
そしてすぐに日が暮れる
(『クアジーモド全詩集』、筑摩書房)
たった三行の詩ですが、私はこれを読むと、先に述べたような人生の素晴らしさとはかなさを思わずにはいられません。そして、人は誰しも「すぐに日が暮れる」からこそ、太陽の光を身体一杯に享受し、輝かなければならない、と。
一口に「太陽光」と言っても、単純なものではありません。あらゆる方向に振動面を持つ偏光の集まりです。赤外線、可視光線(7色)、紫外線など、さまざまに波長の異なる電磁波という横波が、連続スペクトルとなって、組んずほぐれつしながら1億5千万キロメートル離れた地球に届いて来るのです。
したがって、クワジーモドも、この「太陽のひとすじの光」という言葉に様々な思いを詠み込んでいると思います。家族、友達、恋人、先生、先輩、後輩などの「人」。金、車、家、宝石、本、おもちゃなどの「モノ」。山、川、海、空、雲、風、火などの「自然」。愛、勇気、元気、尊敬、信頼などの「こころ」・・・などなど、上げれば枚挙にいとまがありません。
ただし、人を明るく、暖かくする光だけでもないはずです。喧嘩、病気、災害、裏切り、別離、不信、喪失、悲嘆・・・。このように人暗く、冷たくする光もひっくるめて、ありとあらゆるものが組んずほぐれつしながら、偏光板を介すことなく「ひとすじの光」となって、一人の人間をつらぬき通す。
だから人の一生というものは、誰一人として同じではない、とクワジーモドは言わんとしているのではないか?と思います。そして「光陰矢のごとし」とも言うように、人はそんな光の矢につらぬかれ「すぐに日が暮れる」と(冒頭に触れた通り、厖大で深遠な宇宙の営みの中では「すぐに」ということだと思います。人間レベルで考えれば、当然大きな個人差があります)。
「利用者様を照らす光になりたい!」・・・。老健職員の一人として、この詩と出会った私はそのように思いました。「そしてすぐに日が暮れる」という避けられない定理があるならばこそ、利用者様が、輝かしい自分史を生き生きと演じられるように、その一人一人を明るく、暖かく照らし出したいと強く思います。
冬至は12月22日。まさに「すぐに日が暮れる」今日この頃です。そんな時だからこそ、この詩を読み返し、思いを新たにした次第です。