雑談

音吐朗々(おんとろうろう)

 「声がさわやかで、滞りなく出ること」を音吐朗々(おんとろうろう)と言います(広辞苑より)。師走になってからNHK総合テレビのデータ放送の画面の背景が赤丸と白丸に変わっていて、「これは何だ?」と思ったら、どうやら紅白歌合戦をあしらったデザインのようです。紅白の話題を聞くと、いよいよ今年もあとわずかだなあ、と思わずにはいられません。

今回で第62回を数える同合戦。今回のテーマは震災からの復興を意識した「あしたを歌おう」55組が出場するそうです。岩手県出身の千昌夫さんが22年ぶりに出場されると聞いて、とても嬉しくなり、涙が出ました。今年は何が何でも出場してもらって、そして「北国の春」を歌ってもらいたいと願っていたからです。「白樺、青空、南風」の明るい出だしを聞くだけでもスカッとした気持ちになる千さんの歌声はまさに「音吐朗々」。老健の利用者様も、「北国の春」を知らない方は皆無と言ってよいほどで、千さんはトップクラスの人気を誇る歌手の一人です。その千さんが、出身地である陸前高田市の変わり果てた姿を目の当たりにして、「陸前高田は全滅だ・・・」と発した声は悲しみに打ち震え、いつものそれとは全く別人のようでした。

 だけど、歌には力があります。悲しみや苦しみを打ち破る強さとたくましさ、そして愛があります。音楽は人と人とを結びつける絆です。声や楽器が空気を振動させ、それが心に共鳴し、喜びを何倍にも大きくし、夢と希望を膨らませます。311日以降、そのことを強く実感させられました。

 千さんの以外にも、福島県出身の西田敏行さんが21年ぶりに出場するほか、同県出身者によるロックバンド「猪苗代湖ズ」が初出場し、「あした」を歌うとのこと。願わくは、千さんに大トリをとってもらい、「北国の春」をみんなで、つまり出場歌手や会場の見学者、そしてテレビやラジオの前の全員で、大合唱できれば、と思います。今年に限っては赤組、白組、どっちが勝つかなんて関係ない。みんなが一つになって、「あした」を歌えるといいと思います。

そしてすぐに日が暮れる

  人間はだれしも、自分史というステージの上では主人公です。このことはその人の一生涯にわたって不変であり、自分史の中で自分が脇役になることはありません。一方、無限に広がる宇宙中空間、そして読んで字の如く、天文学的な時間の流れの中では、人間の一生というものはあまりにもちっぽけで、一瞬とも呼べないほどに短いものと言えるでしょう。

 たしかにそうかもしれませんが、人生はかけがえのない素晴らしいものです。自分史というステージの上で、人はさんぜんと輝くスポットライトを浴びるのです。その人だけのための光を・・・。そして、そのステージで演じられる、自分史というただ一度きりの輝かしいストーリーは、誰一人として同じものではありません。

 

クアジーモドという人をご存じでしょうか。1951年にノーベル文学賞を受賞した、イタリアの詩人です(1901-1968)。そのサルヴァトーレ・クワジーモドの代表的な作品が、表題の「そしてすぐに日が暮れる(ed è subito sera)です。

 

Ognuno sta solo sul cuor della terra

trafitto da un raggio di sole:

ed è subito sera.

 

人はみな独りで地心の上に立っている

太陽のひとすじの光に貫かれ、

そしてすぐに日が暮れる

(『クアジーモド全詩集』、筑摩書房)

 

 たった三行の詩ですが、私はこれを読むと、先に述べたような人生の素晴らしさとはかなさを思わずにはいられません。そして、人は誰しも「すぐに日が暮れる」からこそ、太陽の光を身体一杯に享受し、輝かなければならない、と。

 一口に「太陽光」と言っても、単純なものではありません。あらゆる方向に振動面を持つ偏光の集まりです。赤外線、可視光線(7色)、紫外線など、さまざまに波長の異なる電磁波という横波が、連続スペクトルとなって、組んずほぐれつしながら15千万キロメートル離れた地球に届いて来るのです。

したがって、クワジーモドも、この「太陽のひとすじの光」という言葉に様々な思いを詠み込んでいると思います。家族、友達、恋人、先生、先輩、後輩などの「人」。金、車、家、宝石、本、おもちゃなどの「モノ」。山、川、海、空、雲、風、火などの「自然」。愛、勇気、元気、尊敬、信頼などの「こころ」・・・などなど、上げれば枚挙にいとまがありません。

ただし、人を明るく、暖かくする光だけでもないはずです。喧嘩、病気、災害、裏切り、別離、不信、喪失、悲嘆・・・。このように人暗く、冷たくする光もひっくるめて、ありとあらゆるものが組んずほぐれつしながら、偏光板を介すことなく「ひとすじの光」となって、一人の人間をつらぬき通す。

だから人の一生というものは、誰一人として同じではない、とクワジーモドは言わんとしているのではないか?と思います。そして「光陰矢のごとし」とも言うように、人はそんな光の矢につらぬかれ「すぐに日が暮れる」と(冒頭に触れた通り、厖大で深遠な宇宙の営みの中では「すぐに」ということだと思います。人間レベルで考えれば、当然大きな個人差があります)。

「利用者様を照らす光になりたい!」・・・。老健職員の一人として、この詩と出会った私はそのように思いました。「そしてすぐに日が暮れる」という避けられない定理があるならばこそ、利用者様が、輝かしい自分史を生き生きと演じられるように、その一人一人を明るく、暖かく照らし出したいと強く思います。

冬至は1222日。まさに「すぐに日が暮れる」今日この頃です。そんな時だからこそ、この詩を読み返し、思いを新たにした次第です。

史上最大のバーゲンセール

  年の瀬の風物詩と言えば、バーゲンセール。街を歩けば「大売出し」「〇〇%OFF!」などのポスターと商品の山、大声で呼び込みをかける店員、そして群がる客の姿。他の季節にもバーゲンはありますが、お歳暮やクリスマス商戦も相まって、冬のそれはもっとも活気があるように思えます。そしてそのまま年末の正月準備、さらに間髪いれず初売りセールとにぎわいが続きます。

 さて、そんな折ですが、「史上最大のバーゲンセール」という文言があるのをご存じでしょうか。それは芥川賞作家の新井 満(あらい まん)さんの『サンセット・ビーチ・ホテル』(文芸春秋)という著書に収められている、『サンライズ・ステート・ビル』という作品の中で見つけました。

アメリカ、ニューヨークはマンハッタン島を訪れた主人公の女性に、現地の青年が島の歴史を説明します。それによると、1624年、オランダ人が同島を占拠し、ニューアムステルダムと名付け、60グルデンという金額で原住民のインディアンから強引に買い取ってしまったそうです。このことが「史上最大のバーゲンセール」と言われている、と青年は説明していました。

この「グルデン」とは、オランダの貨幣単位で、現在はユーロに移行しているのですが、60グルデンが今のお金(作品が書かれた1986年頃と思われます)にするといくらになるか、というと、「50ドル」と青年は述べています。こりゃあ安い!国連本部やブロードウェーやウォールストリートがあるニューヨークの中心、あのマンハッタンが50ドルとは!今の為替レートなら5000円札一枚で1000円以上おつりが来る値段で買ったとなれば、これはたしかに「史上最大のバーゲンセール」と言えるでしょう。それから40年後にイギリス人が来て、ぬーアムステルダムからニューヨークに変わったそうですが、こんな大安売り、二度とお目にはかかれないことでしょう。

しかし、です。このマンハッタン、もっと安い値段で買っていたという事実があるのです。買ったのはオランダ人でなく、日本人の私。その値段は・・・なんと100円!うわっ、安い。だけどそれはマンハッタン島という不動産ではなく、菓子パンの話。ねじれたドーナツにチョコレートがかかっていて、食べればサクサク。甘さたっぷりのパンでした。そしてなんといってもその特徴はその袋。星条旗と摩天楼(エンパイアステートビル?)が描かれていました。高校の売店にあったのですが、すぐに売り切れるので、競い合って買っていました。そのパンの名前が「マンハッタン」だったというわけです。ご存じの方もおられるのではないでしょうか。調べてみると、リョーユーパンが昭和49年に発売を始め、今なお人気の超ロングヒット商品なのだそうです。マンハッタンで見つけた商品を参考にしたから「マンハッタン」と名付けたとか。

なお、この「マンハッタン」に対抗して、「バターフランス」というパンもありました。これは、今店頭にあるラスクっぽいやつとは違い、細長いフランスパンに、バタークリームがたっぷり入っているもので、噛みごたえとボリュームがあり、「マンハッタン」と人気を二分し、お昼の高校売店における「スイーツ米仏合戦」、それはそれはすさまじいものでした。

そんなことを懐かしく思い出していた1129日のこと。日本経済新聞に「甘党男子、甘?い生活」という記事が載っていました。甘い物が好きな男性が増えており、酒を飲んだ後はシメにアイスを食べたり、大手コンビニが男性向けスイーツを売り出したところ、売り上げが大幅に伸びたりしているのだそうです。また、日本能率協会総合研究所の調査によると、40代男性で甘い物が「非常に好き」と回答した人の割合は2010年で35%7年間で倍増しているのだそうです。

40代と言えば、介護保険料を払っている世代。このままいくと、近い未来の老健施設では、アイスやプリンやシュークリームがテーブルに乗り、そして忘れちゃいけない「マンハッタン」と「バターフランス」が食卓上でバトル甘味のバトルを繰り広げるようになるんだろうか?バーゲンの季節に、そんな甘い想像をしてしまいました。

親愛の気持ちあったとしても(゜∀゜)

  広辞苑には本当に色々な言葉があり、調べ物がなくてもつらーっと読めば、それだけでも面白いものです。しかしさきごろ、とんでもない言葉を発見してしまったのです。はたしてこれはまことなりや?未だに疑心の念を払拭することができません。

 その言葉とは・・・。まず意味から。抜粋すると次の通りです。

「《代》親愛の気持をもって相手を指していう語。きみ。こそ。宇津保藤原君『おもしろきことのたまふ―たちかな』」。

 そうです。相手に「親愛の気持ち」がある場合に用いる言葉です。決して恨みや憎しみがある際に発する語ではありません。その言葉とは、その言葉とは・・・・

「くそ」(゜◇゜)ガーン( ゜Д゜)

 嘘偽りは申しません。広辞苑にあるのです。ひらがなで「くそ」と。しかし、これって果たして使えるものでしょうか?会話中に用いて、相手との良好な関係を構築・維持・発展できるのでしょうか?はなはだ疑問です。

 勇気がある老健職員の方はトライしてみて下さい、ただし身内同士で。くれぐれも利用者様との会話にはお遣いにになりませんようにお願い申し上げます。

不協和音も大事です。

  「不協和音」を広辞苑でひもとくと、「同時に発せられる時、不調和で融合せず不安定な感じを与える和音」とあります。音楽用語ではありますが、チームワークが悪かったり、話し合いがこじれたりする際に「不協和音が鳴り響く」などと表現するのに用いられたりします。これと反対の語は「協和音」。同じく広辞苑に「同時に鳴らされた二つ以上の楽音が互いによく融け合った時、その和音を協和音という」と記されています。これだけ読むと、「不協和音というのは悪者なのか?」と思ってしまいますが、果たしてそうなのでしょうか?

 餅は餅屋。音楽用語は音楽専門書に頼ろう、と『はじめての楽譜』(吉田眞由美、永岡書店)を開いてみました。すると、不協和音について、こう書いてありました。「不協和音はこのままでは何となく落ち着かず、協和音につなげてホッとしたくなります。通常、次に協和音をおき、響きを安定させます」・・・。つまり、いったん不安定な状態にするのが不協和音の役割ということのようです。

 ギターを弾き始めた頃、C(ドミソ)とF(ドファラ)とG(シレソ)という3つの長三和音(コード)、いわゆる「主要三和音」を覚えただけで、何だか曲になりそうな気分になった経験はないでしょうか(もっとも、Fはギターを弾くにあたり、最初に訪れる難関ですね。左手人差し指で、1弦から6弦を同時に押さえるのですから大変!これで挫折する人も多いはず)。実際、この3つ(スリー・コード)で演奏可能な曲もありますが、一本調子になりがち。それでは、と、これに協和音であるAmEmの短三和音を加えて、これらによる「循環コード」というのを覚えると、世界に一つだけのオリジナルソングができる、ような気がするのですが、曲になんだか深みがなく物足りない。何曲が作っていくうち、全部同じ歌に聞こえることに気付いて(゜◇゜)ガーン、ということも少なからず。そこで不協和音の登場です。

 代表的なセブンス・コード(ドミナント・セブンス・コードとメジャー・セブンス・コード)やディミニッシュ・コード、アウギュメント・コード、サス・フォー・コード、シックス・コード・・・・・などなど、協和音と比べて、不協和音の方が圧倒的に多く、その響きも多種多様です(ちなみに、ギターよりピアノで覚えた方が、それぞれの和音の組み合わせの原理が理解しやすいです。あくまでも個人の感想ですが)。リズムとメロディーとハーモニーの3つを「音楽の3要素」と言い、このハーモニーを構成する和音は、メロディーを支える重要な役割を担っていますが、これら不協和音を効果的に用いることで、曲にメリハリがつき、より表現性豊かで感動的な曲に仕上げたり、同じ曲でも全く違う感動を覚えたりすることができたりするわけです。安定しっぱなしではだめ。いったんそのバランスを崩して、あらたな安定を得るために、不協和音は不可欠な存在なのです。

 長々と音楽の話をしてしまいましたが、人間の様々な動作にもこの「不協和音」的な要素が必要となります。例えば、人間が椅子に安定して座り続けるためには、その人がお尻と両足で作る面(支持基底面)の中(内側)に、重心があることが必要です。もし重心がその面からはみ出したら、人はその方向によろよろっとふらついてしまいます。しかし、座っている状態から”ヨッコラショ”と立ち上がるためには、その安定した状態を一度崩さないといけないのです。つまり、前方にわざとバランスを崩してお尻を浮かせながら立ち上がり、今度は両足でつくる新しい支持基底面(座っている時よりも狭くなります)の中に重心をもってくることで、安定して立っていることができるというわけです。この「わざとバランスを崩す」という作業こそ、音楽でいうところの「不協和音」の役目と言えると思います。これは立ち上がり動作に限らず、寝返り、起き上がり、歩行などをはじめ、様々な日常生活における動作の中で必要になってくるわけで、そこで「いかに正しく、安全に、効率的にバランスを崩すか(そして新たな安定状態に移行するか)」が課題となります。

とりわけ老健施設においてはこのことが重要で、リハビリ専門職はもちろん、利用者様の生活をサポートし、その自立を支援する全てのスタッフが協業して取り組んでいくこととなります。それぞれの日常生活活動能力を評価、分析し、問題点を抽出、これに基づき動作訓練を行うことはもちろん、必要に応じて自助具を用いたり、環境を整備したり、社会資源を活用したり。つまりいろんな和音を駆使して自立を目指すことが求められるのではないでしょうか。

そしてこれは、単に動作の改善だけに限定するものではありません。あらゆる方策を講じて、一人一人のLIFE(生命・生活・人生)という楽曲をプロデュースしていくことが、老健施設の役割だと思います。何でもかんでも介助してやれば無難だろう、と「過介助」という名の安定した協和音だけでは、みんな同じ曲になってしまいます。協和音と不協和音を利用者様一人一人に応じて織り交ぜ、世界で一つだけの、その人のためだけの曲を、ケアプランという楽譜に書き上げ、そしてそれを各スタッフがそれぞれの楽器を用いて奏でていく。老健はそんな「楽聖集団」であるといいんじゃないか?と思います。

いります!空気いりません!というタイヤ。

  ずっと、あるといいと思ってたんです。そしたら1130日の日経新聞。ついにそれが開発されたと載っていました。

 ブリヂストンは同29日、空気がいらないタイヤを開発したと発表したそうです。「空気が入らないタイヤ」じゃなく、「空気が要らないタイヤ」です。特殊形状の樹脂を内部に張り巡らせた構造で重さを支えるため、パンクの心配がなく、空気圧調整なども不要とのことです。

 すでに1人乗りの電動カート用としては実用レベルに達しているこの「非空気入りタイヤ」。今後は耐久性などを高めて、自動車への実用化を急ぐ、との記事内容でしたが、是非とも車椅子への導入をして欲しいと望みます。

 車椅子を使って生活される人にとって、そのタイヤの空気が抜ける、あるいはパンクするということは、すなわち生活・行動できる空間が制限されることに直結しかねません。そればかりか、ブレーキがかからなくなり、大変危険な状態となることは周知の通りです。

しかしながら、自分で空気を入れたり、ましてやパンクの修理をするのは至難の業。パンクしないタイヤとなると、中空でない、オールゴム製のタイヤもありますが、重く、乗り心地も良いとは言えません。そんな中、数年前、回転することで自動的に空気が入る仕組みのタイヤが開発され、自転車や車椅子に導入されて好評ですが、さすがにパンクしてしまうとお手上げです。自転車なら自転車屋まで押して行って修理を頼めますが、車椅子だとそうはいきません。「空気が抜けたりパンクせずに、乗り心地のよいタイヤがないものだろうか?」と思っていた矢先に、今回の朗報です。

123日から始まる「東京モーターショー」に出展されるこのタイヤ、自動車関連の人たちから注目されることはもちろん、私たち老健施設をはじめとする介護分野の関係者からも高い関心が寄せられることと思います。そしていち早い実用化を期待します。

なお、本ブログのタイトル、詳しく(?)は「要ります!空気要りません!というタイヤ」でした。「なんじゃこりゃあ?」と思われた方がおられましたら、悪しからずご容赦ください。

自分にかける日

  いよいよ今日から師走。今年も残すところ一か月となりました。「師が走る」と書く通り、何かとあわただしくなることと思いますが、油断大敵。安全第一で仕事に励みましょう。

 さて、今日のこの日、121日、という数字の並びを見ていて気づきました。「121 “というのは112乗だ」と。中学校の数学では平方の数を学びます。そして平方根も学ぶのですが、これが円周率に次いでおそらく2番目に遭遇する無理数。「ひとよひとよにひとみごろ」「ひとなみにおごれや」「ふじさんろくにおーむなく」などと覚えたりしますが、この「ルート」なるものが登場してきてつまずく人もいたのではないでしょうか。そもそも名前が良くない。「”無理”数」ですからね。

 話を戻しますが、「2乗」は「自乗」とも書きます。そもそも同一の数や文字を次々に掛け合わせることを「累乗」と言い、2乗、3乗、4乗、5乗・・・と続きます(ちなみに1乗は元の数字と同じで、0乗はみんな1になります)。それらの中で、唯一「2乗」だけが「自乗」と書き表すことができるというのは、何だか特別なことのように思えます。つまり「自乗」とは、「自分に自分をかける」、あるいは「自分を自分にかける」というふうに読み取ることができるのではないでしょうか。

 「わたし、自分にかけてみたいんです!!」といったセリフをテレビドラマ等で耳にすることがあります。これって、「自分は、自分にかける」、すなわち数学的(?)には自乗じゃないか?とふと思いついたのです。

 そこで提案!本日、121を「自分にかける日」としてはどうでしょうか?自分の可能性を信じ、チャレンジしよう!頑張ってみよう!自分にかけよう!という日にしては。うーん、何だかかっこいい・・・。

 と一人悦に入っていると、この「自分にかける日」(未決定)、他にもまだあるわあるわ。すなわち、

 

16 16・・・4の自乗)

121日(121・・・11の自乗)

25日(25・・・5の自乗)

225日(15の自乗)

36日(36・・・6の自乗)

324日(324・・・18の自乗)

49日(49・・・7の自乗)

529日(529・・・23の自乗)

64日(64・・・8の自乗)

625日(625・・・25の自乗)

729日(729・・・27の自乗)

81日(81・・・9の自乗)

1024日(1024・・・32の自乗)

121日(121・・・11の自乗:先述)

1225日(1225・・・35の自乗)

 

以上、15日もありました<(^´)>。これじゃあ、121日だけを「自分にかける日」とはできません。うーん、残念。

 だが、待てよ!?そもそも、自分が自分にかけないで、だれにかけるというのでしょう。かりにこれらの日を全部「自分にかける日」にしたとしても、その他の日はどうするんだ?「ほかの人にかけよう!」なんて他力本願なことじゃあいただけませんね。

 そんなわけで、「自分にかける日」の提案は棄却!自分の可能性を信じ、チャレンジしよう!頑張ってみよう!自分にかけよう!という気持ちをいつも持ち続けて、日々の仕事に励みたいと思います。

ドンパンと、熱烈に聞くべし

  「人を熱烈に動かそうと思ったら、相手の言い分を熱烈に聞きなさい」とは、デール・カーネギーの言葉です(『リーダーシップ名言集』鎌田 勝、三笠書房)。この言葉に触れ、日ごろの利用者様への接し方を反省してしまいました。「自分は熱烈に聞いているのか?」と。

 よく「相手の話を『傾聴しよう』」などと言ったりします。私たち老健に勤める者が使う数ある用語の中でも、その横綱的存在とも言える「傾聴」。これを『広辞苑』で調べると、「耳を傾けてきくこと。熱心にきくこと」とちゃーんとあります。聞いている「ふり」じゃあいかんのです。日々の業務に追われていると、ついつい聞いている「ふり」をしながら、次の仕事の事を考えてしまっていることはないでしょうか。聞くことをせずして、利用者様を動かそうとしていた自分を猛省しました。そして、「聞く”ふり”のプロになってはいけない!”聞くプロ”にならなければ」とつくづく思いました。

 秋田県の有名な民謡ドンパン節に「庭の菊だけ菊じゃなし 根もきく葉もきく花もきく わたしゃあなたのことも聞く 手に手をとって踊ろうよ」というくだりがあります。どんどん!ぱんぱん!熱烈に聞こうではありませんか。

もののけ姫もナウシカも・・・

  1125日付け宮崎日日新聞文化欄。”「死」考え「生」充実”という四段見出しが視界に飛び込んできました。新刊「『始末』ということ」(角川onテーマ21)を出された、宗教学者の山折哲雄さん(80)が、紙面上で「近代の福祉の思想が、老人を救済すべき弱者に追いやった」と強調していたのです。

 「現代の葬祭のプロセスはシステム化され、衛生的、効率的になった一方で、遺族ら近しい人から見えにくくなっている」と切り出した山折さん。科学では説明できない「魂」の概念を見失い、「鎮魂」のしかたを忘れてしまっていると述べていました。

 このことを踏まえ、「年をとることは果たして忌むべきことか?」と問いかけている山折さん。たしかに体力やエネルギーを失うが、それをもって「救済すべき弱者」と決め込んではいけない、代わりに獲得した英知に目を向けるべきだと訴えていました。「日本には老人を『翁(おきな)』として尊重する思想があった。老人こそが最も神に近いと考えられた」とも。これを読んでハッと思い出したのが表題の宮崎駿作品「もののけ姫」、そして「風の谷のナウシカ」です。

 「もののけ姫」では、たたり神に傷つけられた主人公が、村の老婆の占定め(うらさだめ)に従い、はるか西の国へ旅立ちます。「ナウシカ」では、風の谷の老婆(おおばばさま)が、いにしえの昔からの言い伝え(「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし・・・」というあの名セリフです)を子供達に教え、救世主が現れたことを告げます。いずれの作品でも、若い者達が人生の先輩に対して尊敬の念をもって接し、話に耳を傾け、従います。特に「ナウシカ」のおおばばさまは、視力も衰え、歩くのもままならない状態です。それでもこれら「最も神に近い人」を否定したり、さげすむ村人はいません。かつて両作品とも、人と自然との関わりについて考えさせられたものですが、今回の記事を読みながら、これらが敬老の精神をも説いていたことを、今になって初めて気づき、宮崎作品の奥行きの深さを思い知らされ、新たな感動を覚えました。

 話が戻りますが、山折さんは「後期高齢者」から「末期高齢者」、そして「臨終期高齢者」へと老いが「成熟」していくライフステージにふさわしい人生モデルの必要性を訴えていました。老健施設において、この「ライフステージにふさわしい人生モデル」こそ、「ケアプラン」そのものに換言できるのではないでしょうか。宮崎監督が思いの全てをセル画に込めて、作品に仕上げたように、私たちも一人一人のライフステージにふさわしいケアプランの策定と、その実践に努めなければならないと思いました。

なんか、がんばるぞ!っと。

 「ヒマラヤ山脈の西端、カシミール地方にある高峰。ラーワルピンディーの北東に位置する。海抜八一二五メートル」と広辞苑に記されている山があります。その山の名は、その山の名は・・・「ナンガ-パルバット(Nanga Parbat)」。ネットで検索すると、たくさんヒットして、その美しく崇高な姿を見ることができるはずです。

この名前、「ナンガ‐パルバット」という字面と、他の山々に「屹立」と形容するのを許さないかのようなたたずまいを見ていると、「なんか、頑張るぞ!っと」という気持ちが湧いてくるのです。「ナンノコッチャ?」と思わせてしまった方、申し訳ありません。

 お詫びがてら、山つながりで北島三郎さんの名曲「山」の三番をご紹介します。

 

  目先のことに うろちょろするな

  昨日と同じ 今日はない

  それが師匠(おやじ)の 口癖だった

  たった一度の 人生を

  花にするのも がまんなら

  山にするのも またがまん

 

そんなこんなで、ついに11月最後の週となりました。霜月も今日を含めて3日を残すのみです。昨日と同じ今日はありません。「一日を大切にしよう。その差が人生の差につながる」と言ったのは、フランスの哲学者、デカルト(『いい言葉は、いい人生をつくる』斎藤茂太、成美文庫)。花にするか!?山にするか!?いずれにせよ、いい人生のために、今日もしっかり積み重ねましょう。なんか、頑張るぞ!っと。

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