雑談

竜吐水で火の用心

  「りゅうどすい」と読む「竜吐水」。一体何かというと、昔の消火ポンプです。水がたっぷり入った大きな木の箱の上に横木があって、これを人力でギッコンバッタンやると水が勢いよく噴き出す仕組みで、時代劇などでは時々登場していたと思います。「火事と喧嘩は江戸の華」などと言うらしいですが、火事はいけません。年末の火の用心を呼びかけるため、毎晩各地の消防団員が巡回しています。頭が下がる思いです。「火事あとの火の用心」とは、その時機におくれて間に合わないことを言いますが、本当に、後から用心してもどうしようもありません(参考:『暮らしの中のことわざ辞典』、集英社)。

 さきごろ、当協会が会員施設を対象に、災害対策に関する調査を実施したところ、43施設中、33施設から回答がありました。これによると、当然ではありますが、全ての施設が防災訓練を定期的に実施しているとのことでした。もちろん、火災を起こさないことが重要ですが、今年ほど災害への備えの大切さを思い知らされたことはありません。起こりうるであろう、様々な事態を想定して、日頃からの心掛けを徹底したいと思います。

 来年はたつ年ですが、竜吐水が活躍するような年になっては困ります。くれぐれも、火の用心に努めましょう。

でんちゅうでござる

 本日1214日は四十七士討ち入りの日です。元禄15年(1702年)の今日、大石良雄をはじめとする赤穂浪士47人(実際には寺坂吉右衛門が脱落したため46人)が、吉良義央邸に攻め入って、赤穂藩主浅野長の敵を討ったその日の天気は雪。三波春夫さんが「さぁく、さぁく、さく、さく、さく、さく、せんせーい」とやっていましたが、一説によれば、雪が足音を消したおかげで、討ち入りに気づかれずにすんだとか。

 そして、師走になるとかつては必ずと言っていいくらいやっていたテレビ時代劇が「忠臣蔵」。豪華キャストを揃え、2時間、いや以上かけてやっていました。しかし、今ではもう昔懐かしい思い出となってしまい、少し寂しい気がします。

この「忠臣蔵」で必ず登場する見せ場の一つが「刃傷松の廊下」のシーン。勅使下向の接待役となった赤穂藩主浅野長矩が、儀礼担当職の吉良義央による屈辱的な振る舞いに耐えかねて、江戸城中は松の廊下(本当はそこではなく、もっと狭い廊下だ、という説もあるようですが)で刃傷に及ぶ場面。「五万三千石所領も捨て家来も捨てての刃傷でござる。討たせてくだされー!」と訴える浅野長矩を、羽交い絞めにして止める梶川与惣兵衛が、「浅野殿!でんちゅうでござる!!」と叫びます。

 子供心にこれを聞いたとき「はぁ?“電柱でござる???”」と不思議でしょうがなかったものでした。なぜゆえに江戸時代に電柱があったのか?と。もちろん「電柱」ではなく、「殿中」の誤り。そもそも「刃傷(にんじょう)松の廊下」にしても「人情松の廊下」と思っていたので、「人を切りつけることが何ゆえに人情なんだろう?」と首をかしげていたことを、毎年この時期になるとおかしく、そして懐かしく思い出します。

 時代劇(とプロレス)がテレビから消えてしまったことを嘆く高齢者の声を時折耳にします。景気も良くない今、大掛かりなセット、豪華絢爛な衣装、ビッグな役者を使って制作しても、視聴率が期待できない時代劇は、舞台から去らないといけないのかなあ、と少し寂しくなります。もっとも、「レンタルビデオがあるじゃないか」と言われればそれまでなのですが・・・。

 「でんちゅう」ついでに言いますと、「でんちゅうしきちりょう」というのがあるのをご存じでしょうか。最初にこれを耳にしたとき「電柱式治療」と思ってしまいました。電柱を使って何をどう治療するんだろうと不思議だったのですが、「電柱敷地料」と知って納得するとともに、恥ずかしくなりました。九州電力のホームページにも「電柱敷地料とは、当社がお客さま敷地内に電柱等を設置させていただく際に、お客さまにお支払いする敷地借用料金で、電柱等の設置に際しては、お客さまから『承諾書』という形でご承諾をいただいています」とあり、ここまで読むと治療法の類とは全く無縁であることがはっきりします。うーん、日本語って難しい。

悲噴慷慨(ひふんこうがい)

 『意味から引く四字熟語』(池田書店)に「自らの運命の転変や世間、社会の状況に対して、嘆き悲しんだり、憤りを感じること」と記されているのは「慷慨(ひふんこうがい)」。しかし、これは慷慨と言うべきでしょう。桜島の今年の年間爆発回数が、観測史上最多だった昨年を上回ったとのこと。

 128日の朝日新聞によれば、今回の噴火は1946年(昭和21年)、爆発が日に100回以上に増え、溶岩流出したという昭和噴火の前に酷似しているそうです。そして、差し迫ってはいないものの、97年前、死者58人を数えた大正噴火級の大噴火が確実に近づいていると、火山学者の見方は一致しているとも。海底噴火などに伴う津波の危険も指摘されており、不安が募ります。

 それとは正反対に、ずーっとだんまりを決め込んでいるのが新燃岳。しかし、活動を止めたわけではなく、不気味に膨張を続けており、いつ噴火してもおかしくないとのこと。その姿は「思黙考」ならぬ「止黙考」。不気味です。

 さきごろ、宮崎空港で不発弾の処理が行われ、無事作業が終了しました。桜島も新燃岳も、同じようになんとかならないものだろうか、と懣、ならぬ懣やるかたない思いの今日この頃です。

九:不吉な数と言うけれど・・・

 「苦(く)」と音が同じということで、忌み嫌われることもある数字、九。しかし決して悪いやつではありません。十進法で用いられる最大の数字”9“には、不思議で美しい性質があります。

2かける918ですが、18をたすと9になります。

同様に、

 

1×9= 9・・・0+9=9

2×9=18・・・1+8=9

3×9=27・・・2+7=9

4×9=36・・・3+6=9

5×9=45・・・4+5=9

6×9=54・・・5+4=9

7×9=63・・・6+3=9

8×9=72・・・7+2=9

9×9=81・・・8+1=9

 

となります。このようにこれらの積は、十の位の数と一の位の数をたすと、どれも9になるではありませんか。おおーっ!!これって美しくないですか???

 たねあかしをすれば、これらかけ算九九の9の段は9づつ増えていくわけですが、見方を変えると、「10たして1引く」ことと同じです。だから、十の位が1増えて、一の位が1減ることになります。よってそれぞれの位の値をたしても変わらないのです。と、このように理詰めで言うと、美しさが半減しますけど・・・。

 また、有名なものでは、

 

12345679×9=111111111

 

というのがあります。

さらに、「電卓の液晶がちゃんと表示されるだろうか?」というのを確かめたいときには、

 

98765432×9=888888888

             

という計算方法もあります。もっとも、最初から888888888・・・と入力すれば事は足りるのですが、それでは9の美しさに触れることができません。

 いかがでしょうか?9という数字の美しさ、何となくおわかりいただけましたでしょうか。しかし!!忘れちゃいけません。この世でもっとも美しく感動的な”9“が、師走の空に響き渡ることを。

 そうです。ベートーベンの第九交響曲「合唱付き」、すなわち「第九」です。ニッポンの師走にこれがなくては物足りないです。なぜ師走に第九なのか?については諸説がありますが、いずれにせよこれを聞くと。「ああ、年の瀬だなあ」という気分になります。有名なのは第四楽章。ドイツの作家、シラーの「歓喜に寄す」による合唱(と独唱)が、力強く歌い上げられます。”四”も”九”と同様、遠慮されがちな数字ですが、「第九」の「第四楽章」は喜びと希望に満ち満ちた素晴らしい曲です。今年も各地で「第九」の歌声が聞かれるようになりました。「九」という数字に感謝しながら、今年もこの名曲に耳を傾けたいと思います。 

音吐朗々(おんとろうろう)

 「声がさわやかで、滞りなく出ること」を音吐朗々(おんとろうろう)と言います(広辞苑より)。師走になってからNHK総合テレビのデータ放送の画面の背景が赤丸と白丸に変わっていて、「これは何だ?」と思ったら、どうやら紅白歌合戦をあしらったデザインのようです。紅白の話題を聞くと、いよいよ今年もあとわずかだなあ、と思わずにはいられません。

今回で第62回を数える同合戦。今回のテーマは震災からの復興を意識した「あしたを歌おう」55組が出場するそうです。岩手県出身の千昌夫さんが22年ぶりに出場されると聞いて、とても嬉しくなり、涙が出ました。今年は何が何でも出場してもらって、そして「北国の春」を歌ってもらいたいと願っていたからです。「白樺、青空、南風」の明るい出だしを聞くだけでもスカッとした気持ちになる千さんの歌声はまさに「音吐朗々」。老健の利用者様も、「北国の春」を知らない方は皆無と言ってよいほどで、千さんはトップクラスの人気を誇る歌手の一人です。その千さんが、出身地である陸前高田市の変わり果てた姿を目の当たりにして、「陸前高田は全滅だ・・・」と発した声は悲しみに打ち震え、いつものそれとは全く別人のようでした。

 だけど、歌には力があります。悲しみや苦しみを打ち破る強さとたくましさ、そして愛があります。音楽は人と人とを結びつける絆です。声や楽器が空気を振動させ、それが心に共鳴し、喜びを何倍にも大きくし、夢と希望を膨らませます。311日以降、そのことを強く実感させられました。

 千さんの以外にも、福島県出身の西田敏行さんが21年ぶりに出場するほか、同県出身者によるロックバンド「猪苗代湖ズ」が初出場し、「あした」を歌うとのこと。願わくは、千さんに大トリをとってもらい、「北国の春」をみんなで、つまり出場歌手や会場の見学者、そしてテレビやラジオの前の全員で、大合唱できれば、と思います。今年に限っては赤組、白組、どっちが勝つかなんて関係ない。みんなが一つになって、「あした」を歌えるといいと思います。

そしてすぐに日が暮れる

  人間はだれしも、自分史というステージの上では主人公です。このことはその人の一生涯にわたって不変であり、自分史の中で自分が脇役になることはありません。一方、無限に広がる宇宙中空間、そして読んで字の如く、天文学的な時間の流れの中では、人間の一生というものはあまりにもちっぽけで、一瞬とも呼べないほどに短いものと言えるでしょう。

 たしかにそうかもしれませんが、人生はかけがえのない素晴らしいものです。自分史というステージの上で、人はさんぜんと輝くスポットライトを浴びるのです。その人だけのための光を・・・。そして、そのステージで演じられる、自分史というただ一度きりの輝かしいストーリーは、誰一人として同じものではありません。

 

クアジーモドという人をご存じでしょうか。1951年にノーベル文学賞を受賞した、イタリアの詩人です(1901-1968)。そのサルヴァトーレ・クワジーモドの代表的な作品が、表題の「そしてすぐに日が暮れる(ed è subito sera)です。

 

Ognuno sta solo sul cuor della terra

trafitto da un raggio di sole:

ed è subito sera.

 

人はみな独りで地心の上に立っている

太陽のひとすじの光に貫かれ、

そしてすぐに日が暮れる

(『クアジーモド全詩集』、筑摩書房)

 

 たった三行の詩ですが、私はこれを読むと、先に述べたような人生の素晴らしさとはかなさを思わずにはいられません。そして、人は誰しも「すぐに日が暮れる」からこそ、太陽の光を身体一杯に享受し、輝かなければならない、と。

 一口に「太陽光」と言っても、単純なものではありません。あらゆる方向に振動面を持つ偏光の集まりです。赤外線、可視光線(7色)、紫外線など、さまざまに波長の異なる電磁波という横波が、連続スペクトルとなって、組んずほぐれつしながら15千万キロメートル離れた地球に届いて来るのです。

したがって、クワジーモドも、この「太陽のひとすじの光」という言葉に様々な思いを詠み込んでいると思います。家族、友達、恋人、先生、先輩、後輩などの「人」。金、車、家、宝石、本、おもちゃなどの「モノ」。山、川、海、空、雲、風、火などの「自然」。愛、勇気、元気、尊敬、信頼などの「こころ」・・・などなど、上げれば枚挙にいとまがありません。

ただし、人を明るく、暖かくする光だけでもないはずです。喧嘩、病気、災害、裏切り、別離、不信、喪失、悲嘆・・・。このように人暗く、冷たくする光もひっくるめて、ありとあらゆるものが組んずほぐれつしながら、偏光板を介すことなく「ひとすじの光」となって、一人の人間をつらぬき通す。

だから人の一生というものは、誰一人として同じではない、とクワジーモドは言わんとしているのではないか?と思います。そして「光陰矢のごとし」とも言うように、人はそんな光の矢につらぬかれ「すぐに日が暮れる」と(冒頭に触れた通り、厖大で深遠な宇宙の営みの中では「すぐに」ということだと思います。人間レベルで考えれば、当然大きな個人差があります)。

「利用者様を照らす光になりたい!」・・・。老健職員の一人として、この詩と出会った私はそのように思いました。「そしてすぐに日が暮れる」という避けられない定理があるならばこそ、利用者様が、輝かしい自分史を生き生きと演じられるように、その一人一人を明るく、暖かく照らし出したいと強く思います。

冬至は1222日。まさに「すぐに日が暮れる」今日この頃です。そんな時だからこそ、この詩を読み返し、思いを新たにした次第です。

史上最大のバーゲンセール

  年の瀬の風物詩と言えば、バーゲンセール。街を歩けば「大売出し」「〇〇%OFF!」などのポスターと商品の山、大声で呼び込みをかける店員、そして群がる客の姿。他の季節にもバーゲンはありますが、お歳暮やクリスマス商戦も相まって、冬のそれはもっとも活気があるように思えます。そしてそのまま年末の正月準備、さらに間髪いれず初売りセールとにぎわいが続きます。

 さて、そんな折ですが、「史上最大のバーゲンセール」という文言があるのをご存じでしょうか。それは芥川賞作家の新井 満(あらい まん)さんの『サンセット・ビーチ・ホテル』(文芸春秋)という著書に収められている、『サンライズ・ステート・ビル』という作品の中で見つけました。

アメリカ、ニューヨークはマンハッタン島を訪れた主人公の女性に、現地の青年が島の歴史を説明します。それによると、1624年、オランダ人が同島を占拠し、ニューアムステルダムと名付け、60グルデンという金額で原住民のインディアンから強引に買い取ってしまったそうです。このことが「史上最大のバーゲンセール」と言われている、と青年は説明していました。

この「グルデン」とは、オランダの貨幣単位で、現在はユーロに移行しているのですが、60グルデンが今のお金(作品が書かれた1986年頃と思われます)にするといくらになるか、というと、「50ドル」と青年は述べています。こりゃあ安い!国連本部やブロードウェーやウォールストリートがあるニューヨークの中心、あのマンハッタンが50ドルとは!今の為替レートなら5000円札一枚で1000円以上おつりが来る値段で買ったとなれば、これはたしかに「史上最大のバーゲンセール」と言えるでしょう。それから40年後にイギリス人が来て、ぬーアムステルダムからニューヨークに変わったそうですが、こんな大安売り、二度とお目にはかかれないことでしょう。

しかし、です。このマンハッタン、もっと安い値段で買っていたという事実があるのです。買ったのはオランダ人でなく、日本人の私。その値段は・・・なんと100円!うわっ、安い。だけどそれはマンハッタン島という不動産ではなく、菓子パンの話。ねじれたドーナツにチョコレートがかかっていて、食べればサクサク。甘さたっぷりのパンでした。そしてなんといってもその特徴はその袋。星条旗と摩天楼(エンパイアステートビル?)が描かれていました。高校の売店にあったのですが、すぐに売り切れるので、競い合って買っていました。そのパンの名前が「マンハッタン」だったというわけです。ご存じの方もおられるのではないでしょうか。調べてみると、リョーユーパンが昭和49年に発売を始め、今なお人気の超ロングヒット商品なのだそうです。マンハッタンで見つけた商品を参考にしたから「マンハッタン」と名付けたとか。

なお、この「マンハッタン」に対抗して、「バターフランス」というパンもありました。これは、今店頭にあるラスクっぽいやつとは違い、細長いフランスパンに、バタークリームがたっぷり入っているもので、噛みごたえとボリュームがあり、「マンハッタン」と人気を二分し、お昼の高校売店における「スイーツ米仏合戦」、それはそれはすさまじいものでした。

そんなことを懐かしく思い出していた1129日のこと。日本経済新聞に「甘党男子、甘?い生活」という記事が載っていました。甘い物が好きな男性が増えており、酒を飲んだ後はシメにアイスを食べたり、大手コンビニが男性向けスイーツを売り出したところ、売り上げが大幅に伸びたりしているのだそうです。また、日本能率協会総合研究所の調査によると、40代男性で甘い物が「非常に好き」と回答した人の割合は2010年で35%7年間で倍増しているのだそうです。

40代と言えば、介護保険料を払っている世代。このままいくと、近い未来の老健施設では、アイスやプリンやシュークリームがテーブルに乗り、そして忘れちゃいけない「マンハッタン」と「バターフランス」が食卓上でバトル甘味のバトルを繰り広げるようになるんだろうか?バーゲンの季節に、そんな甘い想像をしてしまいました。

親愛の気持ちあったとしても(゜∀゜)

  広辞苑には本当に色々な言葉があり、調べ物がなくてもつらーっと読めば、それだけでも面白いものです。しかしさきごろ、とんでもない言葉を発見してしまったのです。はたしてこれはまことなりや?未だに疑心の念を払拭することができません。

 その言葉とは・・・。まず意味から。抜粋すると次の通りです。

「《代》親愛の気持をもって相手を指していう語。きみ。こそ。宇津保藤原君『おもしろきことのたまふ―たちかな』」。

 そうです。相手に「親愛の気持ち」がある場合に用いる言葉です。決して恨みや憎しみがある際に発する語ではありません。その言葉とは、その言葉とは・・・・

「くそ」(゜◇゜)ガーン( ゜Д゜)

 嘘偽りは申しません。広辞苑にあるのです。ひらがなで「くそ」と。しかし、これって果たして使えるものでしょうか?会話中に用いて、相手との良好な関係を構築・維持・発展できるのでしょうか?はなはだ疑問です。

 勇気がある老健職員の方はトライしてみて下さい、ただし身内同士で。くれぐれも利用者様との会話にはお遣いにになりませんようにお願い申し上げます。

不協和音も大事です。

  「不協和音」を広辞苑でひもとくと、「同時に発せられる時、不調和で融合せず不安定な感じを与える和音」とあります。音楽用語ではありますが、チームワークが悪かったり、話し合いがこじれたりする際に「不協和音が鳴り響く」などと表現するのに用いられたりします。これと反対の語は「協和音」。同じく広辞苑に「同時に鳴らされた二つ以上の楽音が互いによく融け合った時、その和音を協和音という」と記されています。これだけ読むと、「不協和音というのは悪者なのか?」と思ってしまいますが、果たしてそうなのでしょうか?

 餅は餅屋。音楽用語は音楽専門書に頼ろう、と『はじめての楽譜』(吉田眞由美、永岡書店)を開いてみました。すると、不協和音について、こう書いてありました。「不協和音はこのままでは何となく落ち着かず、協和音につなげてホッとしたくなります。通常、次に協和音をおき、響きを安定させます」・・・。つまり、いったん不安定な状態にするのが不協和音の役割ということのようです。

 ギターを弾き始めた頃、C(ドミソ)とF(ドファラ)とG(シレソ)という3つの長三和音(コード)、いわゆる「主要三和音」を覚えただけで、何だか曲になりそうな気分になった経験はないでしょうか(もっとも、Fはギターを弾くにあたり、最初に訪れる難関ですね。左手人差し指で、1弦から6弦を同時に押さえるのですから大変!これで挫折する人も多いはず)。実際、この3つ(スリー・コード)で演奏可能な曲もありますが、一本調子になりがち。それでは、と、これに協和音であるAmEmの短三和音を加えて、これらによる「循環コード」というのを覚えると、世界に一つだけのオリジナルソングができる、ような気がするのですが、曲になんだか深みがなく物足りない。何曲が作っていくうち、全部同じ歌に聞こえることに気付いて(゜◇゜)ガーン、ということも少なからず。そこで不協和音の登場です。

 代表的なセブンス・コード(ドミナント・セブンス・コードとメジャー・セブンス・コード)やディミニッシュ・コード、アウギュメント・コード、サス・フォー・コード、シックス・コード・・・・・などなど、協和音と比べて、不協和音の方が圧倒的に多く、その響きも多種多様です(ちなみに、ギターよりピアノで覚えた方が、それぞれの和音の組み合わせの原理が理解しやすいです。あくまでも個人の感想ですが)。リズムとメロディーとハーモニーの3つを「音楽の3要素」と言い、このハーモニーを構成する和音は、メロディーを支える重要な役割を担っていますが、これら不協和音を効果的に用いることで、曲にメリハリがつき、より表現性豊かで感動的な曲に仕上げたり、同じ曲でも全く違う感動を覚えたりすることができたりするわけです。安定しっぱなしではだめ。いったんそのバランスを崩して、あらたな安定を得るために、不協和音は不可欠な存在なのです。

 長々と音楽の話をしてしまいましたが、人間の様々な動作にもこの「不協和音」的な要素が必要となります。例えば、人間が椅子に安定して座り続けるためには、その人がお尻と両足で作る面(支持基底面)の中(内側)に、重心があることが必要です。もし重心がその面からはみ出したら、人はその方向によろよろっとふらついてしまいます。しかし、座っている状態から”ヨッコラショ”と立ち上がるためには、その安定した状態を一度崩さないといけないのです。つまり、前方にわざとバランスを崩してお尻を浮かせながら立ち上がり、今度は両足でつくる新しい支持基底面(座っている時よりも狭くなります)の中に重心をもってくることで、安定して立っていることができるというわけです。この「わざとバランスを崩す」という作業こそ、音楽でいうところの「不協和音」の役目と言えると思います。これは立ち上がり動作に限らず、寝返り、起き上がり、歩行などをはじめ、様々な日常生活における動作の中で必要になってくるわけで、そこで「いかに正しく、安全に、効率的にバランスを崩すか(そして新たな安定状態に移行するか)」が課題となります。

とりわけ老健施設においてはこのことが重要で、リハビリ専門職はもちろん、利用者様の生活をサポートし、その自立を支援する全てのスタッフが協業して取り組んでいくこととなります。それぞれの日常生活活動能力を評価、分析し、問題点を抽出、これに基づき動作訓練を行うことはもちろん、必要に応じて自助具を用いたり、環境を整備したり、社会資源を活用したり。つまりいろんな和音を駆使して自立を目指すことが求められるのではないでしょうか。

そしてこれは、単に動作の改善だけに限定するものではありません。あらゆる方策を講じて、一人一人のLIFE(生命・生活・人生)という楽曲をプロデュースしていくことが、老健施設の役割だと思います。何でもかんでも介助してやれば無難だろう、と「過介助」という名の安定した協和音だけでは、みんな同じ曲になってしまいます。協和音と不協和音を利用者様一人一人に応じて織り交ぜ、世界で一つだけの、その人のためだけの曲を、ケアプランという楽譜に書き上げ、そしてそれを各スタッフがそれぞれの楽器を用いて奏でていく。老健はそんな「楽聖集団」であるといいんじゃないか?と思います。

いります!空気いりません!というタイヤ。

  ずっと、あるといいと思ってたんです。そしたら1130日の日経新聞。ついにそれが開発されたと載っていました。

 ブリヂストンは同29日、空気がいらないタイヤを開発したと発表したそうです。「空気が入らないタイヤ」じゃなく、「空気が要らないタイヤ」です。特殊形状の樹脂を内部に張り巡らせた構造で重さを支えるため、パンクの心配がなく、空気圧調整なども不要とのことです。

 すでに1人乗りの電動カート用としては実用レベルに達しているこの「非空気入りタイヤ」。今後は耐久性などを高めて、自動車への実用化を急ぐ、との記事内容でしたが、是非とも車椅子への導入をして欲しいと望みます。

 車椅子を使って生活される人にとって、そのタイヤの空気が抜ける、あるいはパンクするということは、すなわち生活・行動できる空間が制限されることに直結しかねません。そればかりか、ブレーキがかからなくなり、大変危険な状態となることは周知の通りです。

しかしながら、自分で空気を入れたり、ましてやパンクの修理をするのは至難の業。パンクしないタイヤとなると、中空でない、オールゴム製のタイヤもありますが、重く、乗り心地も良いとは言えません。そんな中、数年前、回転することで自動的に空気が入る仕組みのタイヤが開発され、自転車や車椅子に導入されて好評ですが、さすがにパンクしてしまうとお手上げです。自転車なら自転車屋まで押して行って修理を頼めますが、車椅子だとそうはいきません。「空気が抜けたりパンクせずに、乗り心地のよいタイヤがないものだろうか?」と思っていた矢先に、今回の朗報です。

123日から始まる「東京モーターショー」に出展されるこのタイヤ、自動車関連の人たちから注目されることはもちろん、私たち老健施設をはじめとする介護分野の関係者からも高い関心が寄せられることと思います。そしていち早い実用化を期待します。

なお、本ブログのタイトル、詳しく(?)は「要ります!空気要りません!というタイヤ」でした。「なんじゃこりゃあ?」と思われた方がおられましたら、悪しからずご容赦ください。

最近の投稿

アーカイブ

カテゴリー

老健みやざきFacebook

TOPへ