Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その12)

 (公社)宮崎県老人保健施設協会事務長会と看護・介護研究部会が合同で開いた「masa氏 第2弾講演会」。会場を埋め尽くした400人の参加者はは、講師の「masaさん」こと特別養護老人ホーム緑風の総合施設長、菊地雅洋先生が発する熱いメッセージのひと言ひと言に、完全に引き込まれていました。

 そんな菊地先生が次に示したスライドにはたった一文字、しかしスクリーン一杯の大きさで「魂」と記されていました。

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 そして次のように説明しました「人間の『魂』という字をよく見て下さい。本当に人の魂になるときには誰かに言われて、言い合わないと魂にはなりません。言われなくなった時、言わなくなった時、『云う』という字が『魂』からなくなったら、『魂』は『鬼』になります。どうぞ『魂』を『鬼』にしない介護を我々のいる場所から作っていって欲しいと思います。そういう意味では先ほど言ったように介護の中で相談員での介護職員でも看護師でも栄養士でも介護支援専門員でも全員に必要な力は、考える方の『想像力』とつくる方の『創造力』です。気がついて、気がつくだけで終わってはだめです。気がついて『それは何故?』と”WHY“を繰り返し考え、考えたことを実行して新しいケアに結びつけていく創造力が必要です」。

 このように介護者に必要な能力として「想像力」と「創造力」を挙げた菊地先生は、これに加えて人に対する興味が武器になることや、不幸を作り出すために介護があるわけではないという常識を持つことの大切さを、スライドを用いて示しました。

 ここまで述べると、菊地先生は緑風園における実際の取り組みを紹介しました。

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O脚で転倒を繰り返し特養入所した人の事例】

〇施設内では歩行器で左右に体を振りながら歩き、足が横に持っていかれるように転倒される方

「なぜ横に倒れるのか?」、「どうすれば足が横に持っていかれないか?」と想像力を働かせた

〇知り合いの理学療法士に相談→「靴調製で転倒を防ぐことはできないだろうか?」

O脚矯正用のインソールを100円ショップで購入し使用することで、横に倒れなくなった

【尿意を頻回に訴える認知症の人の事例】

〇入所に際し「尿意を頻回に訴える」と情報書に載っていた認知症の方

〇入所後、確かに何度も「おしっこをしたい」、「トイレに連れて行って」と訴える

「『おしっこをしたい』という訴えは寂しさの訴えではないか?おしっこを理由に誰かに側にいてほしいと呼んでいるのではないか?」(※←このように考えてしまいがち!!)

〇「オムツで対応してもいいでしょうか?」という話も上がる

しかし、認知症でない人が同じ事を訴えたらどう考えるのか?

〇菊地総合施設長自らがその人を連れて泌尿器科受診→膀胱炎だった

〇服薬により2週間で治る。オムツもせず、「おしっこ」とも言わなくなり、自分で普通にトイレに行って排泄するようになった

〇要介護度も下がった

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 これに続き、アルツハイマー型認知症で「在宅の方のケース」および「施設利用者のケース」、そして「脳出血後遺症で排泄感覚の障害がある施設利用者」のそれぞれにおいて失禁がある場合ついて、その特徴を踏まえた目標設定やサービス内容などを交えた排泄プランが紹介されました。「失禁する」ということだけが課題と考えるのは不十分なアセスメントであり、その理由を考察しなければ問題解決にならないこと学んだ受講者は、“WHY(なぜ)を繰り返し考え、それ以上繰り返せなくなったときに、その結論がニーズになる「課題解決型アプローチ」の大切さを実感するとともに、その理由をきちんと整理して抽出する「想像力」と「創造力」を、各施設のスタッフ全員で培っていこうと真剣に聞き入っていました。

←「その11」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その11)

 このように利用者ひとりひとりの人格や生活スタイルを慮った対応の大切さ、そしてそのためにあえて不便な方法に取り組むことが将来的に良い結果をもたらすことを説いた特別養護老人ホーム緑風園総合施設長の菊地雅洋先生。その上で「一番だめなのは、一人の利用者に対して良いケアができるのに『それはその人にはできるかもしれないけれども、みんなにはできないでしょ』と言ってそれさえもしないこと」と切り出し、「『誰かにやれるけれど、全員にできないからやめよう』というのはケアの品質を上げません。一人にできてやっと二人目ができるわけです。それは不平等ではありません」と言いながら「介護サービスの質向上を阻害する『悪平等』意識」というスライドを示しました。そして「『今は一人にしかできないけれど、いずれはみんなにできるためのステップだから』と考えて下さい。『機会均等』イコール『平等』ではありません。『その人に今必要なケアをする、あの人には必要ないから今はしなくていい』というのは平等です。そして今必要じゃなかった人が将来必要になったときに、この人にしていたことと同じことができるはずなのにしない、そこで初めて不平等になるわけですから、『機会均等を求めないで下さい』」と、「平等」の名の下に機会均等を求めることはサービスの質を向上するものではないと強調しました。

 その一例として菊地先生は、釣りが好きな利用者1人だけのために「釣りを楽しむ『大物を釣る』」という行事を計画し、実施している取り組みを紹介しました。その計画書には実施日時や場所、目的に加え、携帯する物として携帯電話や排泄用具一式、カメラ、防寒衣類、飲み物、釣り道具一式が明記され、さらに当日の行動スケジュールも盛り込まれ、それらに基づいて釣り行事を集中的に行ったそうです。対象となった男性利用者は認知症で動かず、しゃべらず、無気力になっていたものの、かつては釣りが好きで、毎日漁港に行っては釣れた魚を刺身にして家族にふるまっておられたとのこと。それを聞いた職員が提案し、このような行事を繰り返し実施したわけですが、その結果みるみるうちに元気を取り戻し、はつらつと歩き、表情豊かにコミュニケーションを交わすようになって奥様も涙を流し、大変喜ばれているとのことでした。

 所要時間は3時間余り。たった一人のため釣り行事には、職員1人が施設内業務から外れて対応。入居者100人の緑風園ですが、「他の職員から不満は出ません。なぜなら職員はこの意味を知っているからです」と菊地先生はきっぱり。「認知症の人はきっかけで変わります。この方にとっては釣りが大切なことでした。必要な時期に必要な事をすることが我々に求められていることだと思います」と話した菊地先生、「釣りに連れて行くだけですから専門的なことはいりません。それを根気よく続けてその時のやる気や表情を見つける、それに気づけるかどうかです、介護にというのは一番近くで気づくことができる専門家ですから。だから我々はむずかしいことを考える前に、介護の現場で『それって普通?』を合い言葉にして下さい。先輩や上司に対しても、部下に対しても両方向から『それって普通?』と明日から職員で言い合って下さい」と続け、ひとつひとつ『ふつうじゃないこと』をつぶしていく取り組みを習慣化することで「それだけで変わるものがあります」と呼びかけました。

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←「その10」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その10)

 「普通の生活とは?」と考える視点を常に持ち、施設で暮らす利用者のそれまでの生活習慣およびその中での楽しみなどを慮ったケアに当たることの大切さについて説明した菊地雅洋先生。入浴や食事の事例に続き、「羞恥心への配慮」や「『行列に並ぶ日常』のおかしさ」について言及しました。

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【羞恥心への配慮はできているか:ベッドサイドのカーテンは何のため?】

〇多床室におけるベッドサイドのカーテンはプライベートを確保するためのもの

〇したがって、おむつ交換の際にはきちんと閉めて行わなければプライベートは保たれない

〇「おむつ交換」ではなく「排泄ケア」の一連の行為→「忙しいのに開けたり閉めたりできない」というのは間違い。自分がトイレに行った時、扉を開けっ放しにして排泄ができるか?

〇「恥ずかしい」と思っていても言えない人に対し、きちんとカーテンを閉めて「私が守ってあげますからね」という意思表示をすることが大事

〇「人格を捨てないと施設には入れない」という人を作ってはいけない!!

 

【『行列に並ぶ日常』はおかしい】

〇皆さんはいつ、どんな時並んで待てるか?僕の場合、美味しいお店ができたら行列に並んで待って食べることは年に何回かあるが、次の日もまた行列に並んで待つようなことはしない

〇高齢者施設は簡単に行列を作ってしまう。入浴の場合、浴槽に入り洗身したりする時間が15分しかないのに、脱衣所にたどり着くまで廊下に30分並ばないといけないという生活になりやすい。

〇脱衣が始まっていないのに廊下に並べて別の仕事をする、というように分業を行うことにより中でつながっていないから行列ができる

〇このような行列は、サービス提供者側の都合で作る不必要な行列であり、「我慢」と「強制」の象徴。毎日並ばないと日課が終わらないというのはおかしい。行列を見たら「悲しい」と思ってほしい

〇これらの反省からできたのが「ユニットケア」。ひとりひとりの生活スタイルに合わせ、マンツーマンで行うケアだから行列はできない

〇大規模型の施設でもマンツーマンをやってみればわかるが、業務効率はそれほど落ちない。30分並ばせる人は30分後に連れてきているだけ。マンツーマンで対応する癖をつければ行列はできないし業務はさほど増えないとわかる

3人以上並んだら「行列」ではなく「我慢」とか「強制」と呼び方を変え、「どうしたらこの『我慢』はなくなるだろう?」と職員みんなで考えて取り組み続けてほしい

〇少しでも良い方法ができたらお互いほめ合いながら続けることで1年後には大きく変わる。行列はなくなる

〇サービス提供方法の効率化を見直し、「不便な方法」をあえて採用することも必要なときがある

←「その9」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その9)

  「普通の生活って何という視点」というスライドを示した菊地雅洋先生はまず入浴を例に取り上げ、次のように話し始めました。

 「例えば入浴は、清潔にするための行為ですが、じゃあ清潔にするためだけだったらシャワーだけでいいのか?という話になります。日本人の生活習慣は必ずしもそうではありません。清潔にするためだけだったら湯船に入る必要性はありませんが、湯船に入らなければ満足しないお年寄りはたくさんいるわけです。ところがそのように大事な『湯船に入る』という生活習慣を簡単に奪えるのも介護です。ある施設では車椅子になった瞬間から浴槽に入れてもらえません。その方々はシャワーチェアで週2回以上入っていますから清潔度は変わらないのかもしれませんが、その施設では恐怖ですよ。車椅子になったら湯船に入れないのですから。そんなことがあるでしょうか。車椅子に乗ったり、シャワーチェアに乗ったりする時に足に力を入れて動作協力しているのですよ。なぜその人達が『湯船に入る』という生活習慣を奪われなくてはいけないのでしょうか。そのようなことをする人たちに僕は『そういう習慣を奪うのであれば、あなた自身が一生湯船に入らないでください』と言いたいと思います。それが我慢できる人でない限り、そのような生活習慣を簡単に奪ってはいけないと思います。

 続いて食事に関しては「うちの施設(特別養護老人ホーム緑風園)は昭和58年にオープンし、僕は新卒で入りました。その時に一番びっくりしたのは”ごちゃ混ぜご飯”。刻みの副食が3品くらいあったのをある職員がおかゆの中に『ばーっ、ばーっ、ばーっ』と入れて混ぜご飯を作って食べさせていたのです。『これは餌だ、餌以下だ』と思いました。こんな食事はないですよ。栄養士さんには悪いと思いますが、食事というのは栄養は二の次だと僕は思っています。一番は楽しみだと思います。楽しみが奪われるような食事はだめだから、食事介助というのは大変な介護技術だと思いますが、うちの職員には『スプーンで介助している時に、そのスプーンの上のものを見て”これは自分の口に入れられるか?”と考える人になって欲しい』と言っています。『自分の口に突っ込みたくないものは、人の口に突っ込むなよ』と思います。それからこれもうちの施設の話ですが、おかゆの上に粉薬をかけて、最初にそれをそのまま食べさせるのです。『どうしておかゆに粉薬をかけるのですか?』と聞きに行ったら上司に言われたと言うわけですよ。当時僕は22歳だったのですが、その人の所に聞きに行きました。すると、『この人は認知症(※当時別名)なので、粉薬をそのまま飲ませたらペッペッと吐き出すでしょ。だからといってオブラートに包んで飲ませたら詰まってあぶないでしょ。だからおかゆにかけるの』と上から目線で言ったのです。これはおかしいと思いました。粉薬は苦いから吐き出すのは当たり前じゃないですか。『オブラートが危ない』というのはわかりますよ。じゃあなぜそのあといきなりおかゆの上にかけるのでしょうか。その間にいくらでも工夫ができるじゃありませんか。いまうちの施設でやっているのは、栄養士に言ってゼリーやプリン状ものの小さいやつで、その人の好む味の強いものを別に出してもらって、その中に薬を入れて食後にデザートのような形で『ツルン』と飲み込んでもらっていますが、それが一番いい方法ではないかと思います。このように工夫はいくらでもできます」と自施設での取り組み状況を紹介すると言葉を句切り、「『餌にしてはいけない』ということです」と厳しく指摘しました。

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 ←「その8」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その8) 

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 このように利用者に対する丁寧な言葉遣いの大切さについて説明してきた特別養護老人ホーム緑風園の菊地雅洋総合施設長。講演も中盤にさしかかり、「親が特養で暮らしている家族の声」について話し始めました。「大切な家族を預けている身としては『たまたまできない職員だった』ではなく、全員が一定レベルに達して欲しいと思っている」、「『ちゃん付け』はやめてほしい。『さん』と呼んで欲しい」、「『おいで、おいで』はない、犬ではないのだから」などといった菊地先生のフェイスブックに寄せられた家族の声を紹介したのに続き、「赤本225頁『長い爪』より 苦情を言えない家族の気持ち」というスライドを示しました。この「赤本」とは菊地先生の著書「人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるためにヒューマンヘルスケアステム税抜き価格1,800」のことです(表紙が赤色になっています)。

 この「長い爪」というのは、菊地先生が一般市民を対象に行ったある講演会の際、講演後に受講者の一人から聞いた話だそうです。その方(仮にBさんとしておきます)が自分の親を預けるにあたり、色々な施設を見て回り、「ここが一番いい施設だ」と思って利用を決めた、ある高齢者施設での話。親の爪が伸びていることに気付いたBさんは、最初自分で爪切りを借りて切ろうかと思ったそうですが、「何かの間違いだろう。職員が気付いて切ってくれるだろう。切るのをやめて様子を見よう」と考え、毎日通っては携帯電話で爪の状態を撮り続け、「次に来たときには切っておいてくれるはずだ」と思い込みたくて一週間通い続けたのですが、一向に切ってくれる様子はなかったとのこと。

「根負けしました」と当時の気持ちを菊地先生に伝えたBさん。職員が「ごめんなさい」と謝ってくれるかと思いつつ、「親の爪を切りたいので、爪切りを貸して下さい」と言ったところ、なんと職員は喜んで爪切りを貸し出したそうです。そのことを寂しそうに話されたBさん、本当は自分で親の面倒をみたかったものの、自身の病気のためやむなく施設入所を決めたのだそうですが、その職員の姿を見て「『私は何か間違っていたのではないか?』と悲しくなりました」と菊地先生の前で涙ながらに話していたとのことでした。

 このように説明しながら菊地先生は、「この方はクレーマーじゃありません。その後も施設には文句を言っていません。クレームを言えないのです。『もしここでクレームを言って、その時謝っていただき、対応をきちんとしてもらったとしても、職員の機嫌を損ねたら夜勤の誰も見ていないときに何をされるかわからないから言えないでしょ、菊地さん』と言われるわけです。家族のその気持ちはもっともだと思いますが、そういう気持ちにさせてはいけません。我々はやはり介護のプロとしてそういう家族さえも幸せにするようなケアを、施設の中でみんなで築き上げて、幸せそうな家族の姿を見て我々自身も気持ち良くなって、それが我々のモチベーションになるのではないでしょうか。誰かが悲しんでいる姿を見て、それが我々の労働のモチベーションは高まるでしょうか。高まらないと思います。事実、うちの施設のモチベーションは看取り介護の中で、最期の瞬間を看取った結果を利用者さんの家族と一緒にデス・カンファレンスで話し合った時に、色々な思い出話をしながら『本当に良かった』と言っていただけることが職員のモチベーションになっていっているような気がします。その時に一番考えていかなければならないのは、『普通の生活とは何か?』ということです」と、苦情を告げたくとも告げられない家族の気持ちがあることを念頭に置くとともに、介護のプロとして家族の幸せをも支援することが仕事のやり甲斐につながると述べ、その際に最重要視すべきことである「普通の生活とは何か」ということについて話し始めました。

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←「その7」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その7)

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 このように「介護現場の割れ窓理論」を説明し、介護現場における感覚麻痺が生じ、それがさらに虐待につながらないためにも丁寧な言葉遣いが重要である事を説いた菊地先生ですが、これに対して異を唱える人がいるとし、次のように話し始めました。

「しかしそういうと『堅苦しい』と言われます。『我々は生活支援。利用者はそんな堅苦しい言葉を望んでいませんよ』と言う職員もうちの施設にはいたわけです。それでどういう接し方をしているのかと聞きに行ったら、普段丁寧語を使い慣れていなくて、誰かの目を気にしてしゃべろうとするからぎこちなくなるわけです。そうすると利用者さんも気を使ってくれて『そんなぎこちなくて、会話になっていないようなら今まで通りでいいから普通に話して』と利用者さんが気を使ってくれているだけなのです。どこの世界が気を使う方が気を使われる方に金を払うのか?という話ですよ」

ここまで述べると菊地先生は一呼吸置き、会場を見渡しながらきっぱりと断じました。

 「事実として言いますが、僕はここ30年以上、利用者さんに丁寧語以外でお話ししたことはありません。見学に来られた方などに、『僕が利用者さんに丁寧語以外で会話をしていたら指摘をして下さい』と言っています。『その場合はすぐ辞めますから』と言っています。ここでも宣言しておきます。辞めます。丁寧語以外の言葉は使いませんから」。

 その気骨に圧倒されたかのように静まる受講者に菊地先生はさらに「だからと言って僕が施設の中で『堅苦しくてあの人とは話しづらい』と言われていることはありません。事実として言えば、80歳以上の女性の人気ナンバーワンは僕です。日本語はボキャブラリーが豊富ですから、丁寧語を使っても別に堅苦しくはなりません。使い慣れていないだけの話です。お客様に使える言葉を普段使えるように慣れて下さい」と、コミュニケーション技術の問題として丁寧語を自らの言葉とし、使い慣れていくことが大事であるとポイントを示しました。

 また特にアルツハイマー型認知症の方の場合、「感情は最期まで残りますが、情報がたまる海馬の血流障害が起こっていて、特にエピソード記憶が障害されます。皆さんとコミュニケーションを交わし良い関係を作って、その感情は残るのですが、皆さんの顔を毎朝忘れてしまいます。名前も覚えられません。そういう障害がありますから、普段どんなに良い関係を作っていても、朝最初に会った瞬間は『知らない人』なのです。皆さんが朝出勤しようと町を歩いていて、向こうから知らない人がスピード感を持って近づいて来て、ニコッと笑って『おはよう』などと親しげにされたら嬉しいですか。女性だったら知らない男性にそのようにされたら嬉しいどころか怖くて気持ち悪いのではないでしょうか。アルツハイマー型認知症で皆さんの顔を毎朝忘れる方と施設の中で会って元気に『〇〇さんおはよう』となれなれしく近づいていくと、みんなびくびくしています。『なんだこいつは。なんで俺の名前を知っているんだ。気持ち悪いな』とおびえさせているわけです。だから認知症の人には『ゆっくり、静かに近づいて、丁寧に』と言っています」と特に注意を喚起しました。

 また今後の傾向として「これからは団塊の世代の方々がたくさん入所して来ます。この方々はもっと長幼の序(ちょうようのじょ:年長者と年少者の間の秩序)とか上下関係に厳しい人です。ですからお客様意識をもってきちっと適切な言葉で接していかないと、その人達に不快な思いや悲しい思いをさせてしまいます」と、これまで以上に顧客満足度を意識した丁寧な言葉遣いが重要になってくることを示唆しました。

 このように言葉遣いの大切さについて説明してきた菊地先生は、会場を埋め尽くした400人の受講者を見渡しながら「皆さんに贈る言葉です」と前置きし、次のようなアメリカのことわざをスライドに示し、読み上げました。

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「言葉は運命になる」

◎言葉に気をつけなさい、それはいつか思考になるから

◎思考に気をつけなさい、それはいつか行動になるから

◎行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから

◎習慣に気をつけなさい、それはいつか人格になるから

◎人格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから

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 「皆さんの汚い言葉遣いを直さないことによって、皆さん自身が将来傷つけられるのであれば、それは自己責任だからいいですよ。だけれども、皆さん方が今この時代に介護のスタンダードを変えないで、『無礼な馴れ馴れしい言葉が親しみやすい』という都市伝説をいつまでも残して介護を続けていくことによって、将来皆さんの愛する子供や孫が傷ついたらどうしますか。どうぞ皆さん100年後の介護のために、今この時代、我々の時代に介護のスタンダードを変えていって下さい」という菊地先生の強い呼びかけに、受講者は神妙な面持ちで聞き入っていました。

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←「その6」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その6)

 最近報道などでその様子が映像付きで伝えられ、社会的な問題となっている高齢者施設での虐待に関し「皆が『あそこまでひどいのは見たことがない』と言いますが、そういう時僕は質問します『それではどこまで許されるのか』と」。

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 このように話しながら、特別養護老人ホーム緑風園の総合施設長、菊地雅洋先生は「介護サービスの現場で、一番欠けている教育とは何か?」というスライドを示しながら、次のように続けました。

 「(どこまで許されるのか)線引きはできません。唯一線引きできるとしたら、我々はお客様に対してプロとしてサービス提供しているのだから、『お客様に対して接客としてふさわしい態度であるのかどうか』というところです。それを『生活支援なのだから”接客”というのを意識しすぎると壁ができて敷居が高くなる』などと言うのは言い訳にしか過ぎません。我々は適切な接客態度をもって接していかないと、(報道されているような施設での虐待と)同じようなことになってしまいます。『利用者は単なるユーザーではなく、”お客様”であるということをきちんと意識しないと、『くだけた態度で親しみやすく接する』などという言い訳で、『無礼な馴れ馴れしい態度』が横行しているのが医療と介護の世界です。元々医療の側が悪いと思いますが、それを我々介護がいつまでも背負っていかないで、介護の現場からここを改革していかないと、『支援という名の支配』がいつまでも続いてしまうと思います。『無礼な馴れ馴れしい態度』などというのは必要としません」。

 このような態度をなくすために、菊地先生は20年以上前から提唱しているのが「介護現場の割れ窓理論」。

(※「割れ窓理論(Broken Windows
Theory
)」は、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング(英語版)が考案した。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。以上『ウィキペディア』より引用)

 「『割れ窓理論』では、建物全体が崩壊し、さらに地域が荒れてしまわないように、まず『割れ窓』のできたところからひとつひとつきちんと窓ガラスを替えていきましょう、という理論です。そして介護サービスで言えばそれは『言葉』だというのが『介護現場の割れ窓理論』です」と述べ、「割れ窓理論」の実証として、地下鉄の犯罪発生率の高かったニューヨークで、その対策としてプラットホームの電球を明るく綺麗にし、車輌いっぱいに描かれていた落書きを消し続けた結果、犯罪発生率が下がってきたことを紹介した上で、「それを考えると、我々の言葉遣いをきちんと正しいものにしていく事が大切だと思います」と述べた菊地先生は、

(1)割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していく

(2)介護現場の割れ窓は「言葉」である

(3)言葉の乱れが常識ではない感覚麻痺を促進させ虐待につながる

(4)言葉を正しくすることで心の乱れをある程度までは防ぐ効果もある

4つをスライドに示し、介護現場における「割れ窓」にあたり、その乱れが利用者への虐待、ひいては施設の荒廃、崩壊につながりかねない「言葉」に関し、利用者に対する丁寧な言葉遣いが極めて重要であることを強調しました。

←「その5」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その5)

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 このように施設における悲惨な「見捨て死」について説明した菊地雅洋先生ですが「ここで考えてほしい」と会場を見渡しながら次のように続けました。

 「それではこの施設の職員がみなひどい奴で、このような放置をしたのか?というと、必ずしもそうではないということです。この入居者は5月下旬に亡くなっていますが、みなさんがもし介護福祉士の資格を取って、『これから人の幸せに関わるのだ』と志を高く持って新卒でこの施設に就職したとします。その時に働いていてまだ2ヶ月も経っておらず、夜勤にも入っていない状態です。仕事を覚えている最中で初めて看取り介護の人がいて、『どうやって看取るのだろう』と思ったら、管理者から『いやいや、”看取り介護”というけれど、医者も家族も特に望んでいることなくて、”何もしなくていい”と言っているのだから、ただ死ぬのを待つだけで、特別なことをしなくてもいいよ。体位交換もしなくていいし、口からものを食べないのだから口腔ケアもしなくていいよ』と言われたら、『ああそうか』と思ってしまいませんか、という話なのです。だからこの施設の職員達は、この状態が悪い状態だとか異常だと思わず、『これが看取りなのだ』と悪気がないまま人の不幸を作っている可能性もなきにしもあらず、です。だからどうか皆さん、正しい知識、正しい常識を忘れないで下さい。これは考えたらわかります。介護の知識がない人が見たら『こういうことでいいの?』と思います。じゃあ介護の知識を持っている人が『こんなことでいいのか?』となぜ思わないのでしょうか。それは間違った教育をされていると同時に、その中にどっぷりと浸かって、感覚麻痺をしている恐れがあります」。

 このように、全ての虐待は一部の特殊な人間によって生み出されるものではなく、介護に携わる者全員にとって決して無縁なものではないと強調した菊地先生。世間から見れば信じられないような虐待が「介護の常識」になっていることについて、そのすべての原因は介護の現場における「感覚麻痺」と指摘。そしてそれは日常の何気ない「鈍感さ」によって生じ、エスカレートするものであると言及しました。

 これを踏まえ、別な高齢者施設で起こった不幸な事件、悲惨な虐待について紹介した菊地先生は「この施設にはたくさんの職員、専門家がいるのに『この状態はおかしいのではないか?』指摘している人が誰もいなかったのです。事件が起こってはじめて気付いたのです。もしかしたら『ちょっとこれはまずいのではないか』と気付いた人がいるかもしれませんが、声の大きい、力の強い職員に反論されて『ああそうかなあ』とだんだんやっているうちに『おかしい』と思った気持ちも薄れていって『これが当たり前の日常なのだ、施設の中ではこれは”あり”なのだ』と感覚麻痺していっているわけです。それを考えると我々も無縁じゃありません。我々もきちんとひとつひとつ、一日一日の仕事を検証しないと、我々自身が麻痺した感覚で不適切なケアを作る人にならないとは限りません。間違ってはいけないのは、『世間の常識と我々の常識がかけ離れているのは普通じゃないということです。世間一般に許されないことは介護施設の中でも許されないという感覚が必要です。だから『普通の生活とは何か?』と考えることが一番大事です」と、このような感覚麻痺に陥らないために、自らを振り返り、世間の常識と介護の常識がかけ離れていないか検証すること、「誰から見ても『普通』」と思える「普通の生活」を意識することの重要性を訴えました。

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←「その4」に戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その4)

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 このように、自らが看取りケアにあたった経験を紹介した菊地雅洋先生。「皆さんの施設でも『看取り介護指針』を作っているかと思いますが、日本で最初に看取り介護指針を作った人はだれかわかりますか。実は僕が作りました。そのようなものが何もない時に看取り介護指針を僕が作りました。それが今、全国のグループホームや特養でたくさん参考にされ、使われています。その責任もありますから、うちの施設で看取り介護を行ったケースについては『こういう実践をした、こういう気づきがあり、こういう失敗があった』ということをインターネットで発信しています」と続けました(菊地先生が総合施設長を務める特別養護老人ホーム緑風園のホームページには看取り介護についてのコーナーが設けてあり、看取りケアに関する様々な情報が発信されています。ぜひご覧下さい)。

 「最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものにかわる」と、全国に先駆けて看取りケアに取り組んできた菊地先生、「しかし我々の業界全体を見渡せば、必ずしもそういう最期を送っている方ばかりではないということが言えると思います」と、近年問題となっている高齢者施設における虐待の問題に切り込みました。

 「祖母が入居しているとある施設の高齢の女性入居者が絶飲食となり、医師も家族も『何もしなくていい』とのこと。口からは鼻出血のあとがみられ、皮膚の汚れも目立ち、部屋の消臭もされていない。彼女はただ死を待つだけなのか?職員は何もできないのか?何もしないでいるのか?『何もしなくていい』とはどのような意味なのか?」という内容の投稿が一般の方からあったことを紹介。その上で「看取り介護になったからといって、『何もしなくていい』ということはありえません」と語気を強め、「看取り介護になってからも、緩和の治療、看護、ケアは絶対必要になります。何もしなくていいものがあるとすれば、『不必要な延命治療』だけです。それ以外は必ず安心・安楽の治療やケアは必要なわけです。口に鼻出血のあとがあるということは、何らかの理由で鼻血が出たのが放置されて、顔も拭いてくれていません。皮膚汚れも目立っているということは清拭すらされていないのではないかという疑いがあります。室内の消臭もされていないということは『臭い』ということです。なぜ臭くなるのでしょうか、看取り介護期に毎日きちんと清拭して排泄ケアをすることで清潔は保たれ、臭いなんかはないです。それなのにこの方はおそらくおむつ交換もきちんとされていない疑いが強いし、そうであれば体位交換もしていない可能性が高いです。しかも口腔ケアがされていないと言いましたね。看取り介護の対象者は最終的に口からものを食べられなくなりますが、だからといって口腔ケアをしないというのは一番だめな対応です。逆に口からものを食べているうちは唾液の分泌がありますから、ある程度口腔内の色々なトラブルが避けられるので、口腔内のトラブルが起きない可能性があります。逆に口からものを食べられなくなったら唾液の分泌が極端に少なくなるので、感染症予防のほかに口の中のひび割れやかびなどを考えると、食べているときよりもしっかり口腔ケアをしないと安楽な介護につながりません。とくに口の中ががびがびに乾いて舌に割れが出て来て出血するとものすごい痛みです。安楽の看取りになりませんから、うちの施設では特に口から食べられなくなったときの口腔ケアはとても大事にしています。だけどここではそれさえもせずに放置しています。こんな状態で放置されていて、この方はどんな人生を送ってきたかはわかりませんが、ここで亡くなる間際は辛かっただろうな、痛かっただろうな、苦しかっただろうな、と思います。この方の人生はこの施設の最期の看取り方によって不幸なものに変わってしまったのではないでしょうか」と述べ、さらに「そしてこの投稿があった後、そのままの状態で永眠されたそうです。これはまさに『看取り』と言いませんこれは『見捨て死』です。『施設内見捨て死』です」と厳しく指摘しました。

その3戻る)             (つづく

Masaさん(菊地雅洋氏)第2弾講演会開きました(事務長会&看護・介護部会:その3)

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 菊池先生は「つい最近まで『戦後70年』と言われていましたよね。だけど終戦記念日が終わってからその言葉が遠い昔のような感覚になっているようです。しかしやはり戦後70年という時期だからこそ考えなければならないことがあると思います。それは我々がケアしている人たちは何歳の方々が使っているのか、と見てみると、うちだと利用者の平均年齢が87歳です。そうするとだいたい75歳から100歳くらいまでの方々がサービスを使っているわけで、皆さんの事業所もだいたい同じだと思います。そうするとその方々は物心ついた以後に1945年から約4年間続いた太平洋戦争を経験なさっています。青春時代をその辛く厳しい時代を生き延びた方です。日常的に自分の愛する親類を奪われて、自分自身の命も危険にさらされて、食べる物も十分ではなくて、本当に辛くて耐える4年間だったと思います。その時代を生き抜いて、今高齢者になって人の手を借りて暮らさなければならなくなった時に『長生きして良かった』と思ってくれるのか、『こんな思いをするのだったらあの時死んでいれば良かった』と思ってしまうのか、それは我々の実践ひとつにかかっているのではないでしょうか」と切り出し、高齢者介護は人生の最晩年期に関わるものであり、それゆえに誰かの人生の幸福度に決定的な影響を及ぼしかねないという責任があることを、戦後70年の日本であるからこそ考えなければならないと強調しました。そして「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものに替わるでしょう」というマザーテレサの言葉をスライドに示し、菊地先生が総合施設長を務める緑風園ではこの言葉を理念に掲げ、介護実践を行っていることを紹介しました。

 その上で菊地先生は昭和50年代、生活指導員を務めていた27歳代の頃から7年間にわたりケアにあたったひとりの女性入園者(Aさん)の事例を紹介しました。20の時に北海道大空襲で爆風を受け、背中に背負った愛娘の命と引き替えに自らは奇跡的に助かったAさんは、心と体に深い傷を負い、生きる意味を見失い、ことあるごとに「生きていて何もいいことない」、「死ねば良かった」と悲嘆の言葉を繰り返していたそうです。そんなAさんに菊地先生は「不幸な人がいるのだな」と思うと同時に、「Aさんがあと何年生きるかわからないけど、せめてうちの施設にいる間だけでも笑ってくれる時間、幸せに感じてくれる時間がつくれないか」と考え、背中のひどい傷跡のため他者との入浴を拒むAさんに対し、個別の入浴支援(当時は入居者50人に対し、「寮母」11人という配置基準で、とても個別浴を行うなど困難だったとのこと)を行うなど、親身になったケアを続けました。

 戦災で天涯孤独となったAさんは介護保険施行前に逝去。看取りに際し職員が見守る中、Aさんが息を引き取る瞬間まで彼女の手を握っていた菊地先生に、Aさんは「あんがとさん」と言って旅立たれたそうです。この時のAさんへの取り組みは、その後の緑風園の介護実践のもととなり、今に引き継がれているとの説明に、受講者は最晩年期のケアにあたる者としての責務の重大さを痛感していました。

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その2戻る)             (つづく

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