雑談

明るい話題

 107日の夕方、まさに「明るい話題」が日本中を明るく照らしました。赤崎勇さん、天野浩さん、そして中村修二さんのノーベル物理学賞受賞のニュースです。3人が発明、実用化させた青色発光ダイオードについて、スウェーデン王立科学アカデミーは「人類に最大の恩恵をもたらした発明」と絶賛しています。2002年に同賞を受賞した小柴昌俊さんも108日付けの朝日新聞で「私がいちばんうらやましいのが、実生活に役立つ発明で受賞されること」と述べていますが、事実、私たちの生活は大きく、そして便利に変わりました。暗いニュースが目立つ昨今にあって、まさしく「明るい話題」です。

 109日付け日本経済新聞に「白熱灯などからの歴史的な切り替えが起こった」とも書いてある照明分野はもちろん、テレビやスマートフォン、そしてブルーレイ・ディスクなど、青色発光ダイオードの発明は世界を一変させ、既に「21世紀で最大の発明」と言われているのもうなずけます。日向神話に登場する太陽神、天照大神(アマテラスオオミカミ)も、「天孫降臨以来最大の発明!」と賛辞を贈っているかもしれませんね。

 授賞式はノーベルの命日である1210日に行われるとのこと。みんなでその栄誉を祝福したいと思います。 

「呼んでくれて感動」に感動

 これは介護の仕事に携わる私の知人(Pさん:仮称、20歳代女性)が、夜勤中に体験した話です。

 

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 その利用者(Lさん:仮称)はいつも夜中口癖で「〇〇ちゃーん」と、前の主任の名前を呼んでいたとのことですが、その夜初めて「Pちゃーん」と呼んでくれたそうです。

 認知症のあるLさんは、5分前の事も忘れてしまうのだそうですが、Pさんは毎日顔を合わせるたびに「私は誰でしょう?」と尋ね続けてきたそうです。

 そうして1年経ったその夜、初めてLさんが「Pちゃーん」と呼んでくれた時のことを、Pさんは「この仕事について1番感動した瞬間でした」と語っていました。

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 心が温まる、とてもいい話だと感銘を覚えました。また、認知症ケアを実践する介護のプロフェッショナルだと、Pさんのことを尊敬してしまいました。短期記憶障害のあるLさんに深い愛情を注ぎ続け、自分の名前を覚えてもらおうとあきらめずに試行錯誤を繰り返しながら寄り添い続けたその熱い想いがLさんに伝わり、1年間経ったその日ついに「Pちゃーん」と呼んでもらえるという、目に見える、そして耳に聞こえる形となって結実したのだと思います。

 厚生労働省によると2012年時点における認知症高齢者は、全高齢者の15パーセントにあたる462万人。そして「軽度認知障害(MCI)」と呼ばれる認知症予備軍は400万人とされ、医療や介護の体制整備が急がれているところです。

 「ノーマライゼーション」という言葉があります。これは、「障害を持つ人が、ほかの人々と同様に生活の糧を得て、住んでいる家庭や地域を動き回り、特別の集団でなく、障害を持つ普通の市民として生活をすること。誰でもが介護を必要となっても長年住み慣れ、親しんだ地域で、皆と一緒に生活したいと望むことは当然である」という考え方です。そして、「社会的な援助を必要とする人たちがいて、それが可能となる社会こそが正常である」というのがノーマライゼーションの思想であり、地域リハビリテーションのゴールです。

 Pさんの心のこもった、そして適切なケアのもとで、Lさんはきっと活き活きとした日々を送っていらっしゃることでしょう。認知症の人が、「認知症を持つ普通の住民」として生活の糧を得ながら充実した生活を続けるために、地域が一体となって支援をすることが重要であり、その中で老健施設が果たすべき役割は大きいと思います。そのことを再認識させいただいたLさんとPさんに感謝するとともに、Pさんを見習って頑張らなくては!と思った次第です。

永久に不滅です

 1974年の1014日、長嶋茂雄選手は引退しました。今からちょうど40年前のことです。日本プロ野球の黄金期を築き上げ、「ミスタープロ野球」とも言われた長嶋選手の引退。巨人ファンや野球ファンのみならず、多くの国民が惜しむ中の引退セレモニーで言った「我が巨人軍は永久に不滅です」は、今も語り継がれる名言です。

 その長嶋氏が脳梗塞で倒れたのは2004年、10年前の34日。速報やトップニュースでそれが伝えられると、日本中に衝撃が走りました。命はとりとめたものの、右手足に麻痺が残り、しばらく公の場から姿を消したミスターを、多くの人が心配しました。

 しかしその間、長島氏は必死のリハビリを続けていました。それは「燃える男」とも呼ばれた現役選手時代の猛練習に勝るとも劣らないほどの過酷なものだったではないかと思います。そして14ヶ月ぶりに元気な姿を見せてくれた時もまた、テレビや新聞の多くトップでその姿を紹介しました。右手の麻痺はあったものの、杖も使わずに歩くその姿に感動し、強く胸を打たれました。

 長嶋氏は数々の名言を残しており、その一つに「ミラクルアゲインの奇跡を再現しますよ」というのがあるそうです。これは「頭痛が痛い」、「お昼のランチ」、「後で後悔する」などと同じく二重表現をさらに重ねて言っていますが、長嶋氏が歩く姿は、まさに自らの身体をもって「ミラクルアゲインの奇跡を再現」させたものだと、深い感銘を覚えました。

 そして現在、長嶋氏は以前と変わりなく精力的に様々な場所で活躍を続けています。単に歩けるようになっただけでなく、社会に参加し、活動を繰り広げています。リハビリを通じて在宅復帰、社会復帰を目指すことを旨とする老健施設で働く者の一人として、その姿から見習うべき事の大きさを痛感せずにはいられません。施設内外の様々な人たちと連携を密にして、利用者が在宅復帰を果たし、地域の中で生き生きとした暮らしを続けられるよう、頑張っていきたいと思います。「老健は永久に不滅です」と胸を張って言えるように。

マラソンの日

 912日はマラソンの日(諸説あり)。ウィキペディアには「紀元前450912日、アテナイの名将ミルティアデスはマラトン(Marathon)に上陸したペルシャの大軍を奇策で撃退した。マラトンの戦いである。勝利というエウアンゲリオンをアテナイの元老に伝えるためにフィディピディス(Philippides)という兵士が伝令に選ばれた。フィディピディスはマラトンから約40km離れたアテナイまでを駆け抜け、アテナイの郊外で「我勝てり」と告げた後に力尽きて息を引き取ったと言われている」と記されていますから、今から実に2464年前のことです。

 そして現代。日本は未曾有のマラソンブーム。2007年に始まった東京マラソンをきっかけに全国的なブームが巻き起こったそうですが、市民ランナーは実に1,000万人を越えているとの報道を聞くとすごいと思います。あまりの人気ゆえ、マラソン大会にエントリーしたくても抽選で漏れたり、定員オーバーで断られたりして出場できなくなる「マラソン難民」も出現するようになりました。

 特に「フルマラソンを走りたい!」という人は多いらしく、今年の1214日に宮崎市内で開催される青島太平洋マラソンも、申込を受け付けたその日のうちに定員に達し、募集を締め切ったそうです。もし40kmを走り抜いた後に息絶えたフィディピディスが現世に生きていたら、さぞかし驚くのではないでしょうか。

 マラソンは有酸素運動の代表的スポーツであり、みんなが走って健康になれば、それに越したことはありません。老若男女を問わず取り組めるのもマラソンの魅力の一つ。日頃「運動不足だな」と感じている人は、マラソンの日を契機に走り始めてみてはいかがでしょうか。

悩んでこそ大輪の花

 829日の朝日新聞に「悩んでこそ 大輪の花は咲く」という見出しが立っていました。これは女優の黒木瞳さんが連載している「黒木
瞳の ひみつのHちゃん」の22回目。それによると、黒木さんが若い頃無知と失敗を繰り返し、怒られたりけなされたりして落ち込んでいるときに、人からこのように言われたのだそうです。

 「蓮の花って、泥水が濃ければ濃いほど、大輪の花を咲かせるそうだ。綺麗な水からは小さな花しか咲かせられない。だから、揉まれて悩んで苦しんでこそ、そこがまさしくあなたの泥水なのだと。あなたが花を咲かせたいなら、泥水の中でもとびっきり汚い水で、育ちなさい。」

 あの大女優、黒木瞳さんがそのように悩んでいた事も驚きですが、そんな黒木瞳さんに対して、こんな言葉をかけてあげた人もまたすごいと思います。その後の黒木さんの活躍ぶりは紹介するまでもありません。

 黒木瞳さん自身の体験から得られた教訓ともいえるこの文を読んでいると、日々の仕事や暮らしの中で抱える色々な悩みや問題に対し、正面から向き合い、乗り越えていくことが自己の成長につながるのだとしみじみと考えさせられました。

 よく「失敗をバネにして」と言いますが、失敗すればやはり落ち込みますし、すぐには立ち直れません。「バネ」にするのは決して簡単なことではありませんが、そこにとどまり続けていては前に進めません。起こした失敗や抱え込んだ悩みを前向きに受け止めて、そこから学び、得られることを大事にして、「自分」という花がより大きく咲けるようにしていきたいと感じた記事でした。

防災の日・関東大震災の日

 91日は防災の日。1923年(大正12年)のこの日の115832秒に起こった関東大震災は甚大な被害をもたらしました。このことにちなみ、1960年(昭和35年)、内閣の閣議了解により制定されたそうです。Wikipediaには「防災の日(ぼうさいのひ)は、日本の記念日である。『政府、地方公共団体等関係諸機関をはじめ、広く国民が台風高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する』こととし、毎年91日を中心として『防災思想の普及、功労者の表彰、防災訓練等これにふさわしい行事』が実施される。また、『防災の日』を含む1週間を防災週間として、様々な国民運動が行われる」と記載されています。

 そして今年もやってきた防災の日ですが、820日に起こった広島土砂災害はもとより、各地で自然災害が相次いで発生しており、防災、減災への心構えと備えの重要性を痛感せずにはいられません。

 以前にもこのブログで紹介しましたが、去る419日、当協会が宮崎市のサンホテルフェニックスで開催した第11回の研究大会の中であった特別講演「高齢者施設のリスク・備えよ常に」の内容を、PDF形式にてアップしています(アドレス:(http://www.miyazaki-roken.jp/blog/sonaeyotuneni.pdf)ファイル名:「sonaeyotuneni.pdf」、941キロバイト、閲覧・ダウンロードはこちらから)。

 この講演は、医療法人生愛会理事長で一般社団法人福島県老人保健施設協会会長の本間達也先生を講師にお招きして開いたものです。本間先生は東日本大震災に遇い、利用者や地域住民の命を守るべく昼夜を問わず奔走し、その中で老健施設としての危機管理への重要性を再認識されました。実体験に基づく貴重なお話は、災害の種類を問わず、私達が災害への備えの意識を新たにし、取り組みを強化する上で非常に役立つ、感慨深いものでした。是非再読されて、それぞれの施設での防災対策の一助として下さい(閲覧・ダウンロードはこちらから)。

夏の終わり

気がつけば今度の日曜で8月が終わってしまいます。天気が良くなかったこともあってか、例年以上に「あっという間」に過ぎてしまった感があります。

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写真は延岡市にある須美江海水浴場。「県内で最も波のおだやかな海水浴場」とも言われていますが、今年は大勢の人でにぎわったのでしょうか。

 8月が終わると夏が終わるような気持ちになって、一抹の寂しさを感じたりしますが、実際にはまだまだ暑い日々が続くと思われます。利用者の体調管理には十分気を配りながら、そろそろ「今年の紅白歌合戦は誰が出るでしょうか?」などと皆で話し合ってみるのもよいのではないでしょうか。

エジソンと雑音

 1910年の827日、アメリカのトーマス・アルバ・エジソンは世界初の音と映像の同時収録を実現したそうです。エジソンが蓄音機を発明したのが1877年、そしてセルロイドのフィルムを使う映画撮影機を完成させたのが1889年だそうですから、蓄音機から33年、映画撮影機から21年を要したことになります。 

 現在ならスマホで簡単に録音・録画し、即座にその動画をアップして、友だちはもちろん世界中の人に見せることができるわけですが、その原点ともなったエジソンのこの発明、当時はさぞかし世界を驚愕させたのではないかと思います。

 このエジソンが「わたしの蓄音機には雑音がある。しかし、その雑音の中から、真の音楽の魂が聞けます」と言ったそうです(『生きるヒントになる名語録728』、轡田隆史監修、橋本一郎著、三笠書房)。さすが発明王エジソン、含蓄のある言葉だと思います。

レコードで音楽を聴いていた頃は、今よりも音楽を大事にしていたように思います。レコード盤をジャケットから慎重に取り出し、クリーナーをスプレーしてホコリを取り除き、レコードプレーヤーにそおっとセット、そして最も慎重を要するのがレコード盤にレコード針を下ろす時。盤や針を傷つけないよう、ゆっくりと、そして正確に下ろさなければなりません。針飛びして曲が飛ぶから曲に合わせて飛び跳ねて踊るなんて御法度でした。そのようにしてレコードを大事にし、おとなしくレコードを聴いていたわけですが、それでも時折あの「プチプチ」という雑音が曲の合間に入り込んで聞こえてきました。アナログプレーヤーの宿命と言えばそれまでですが、できるだけでその雑音が出ないように注意を払いながら、一枚一枚のレコードを大事にして聴いていました。「レコードがすり減るまで聴いた」とはもう死語ですが、何度も繰り返して聴いているとやがてレコードの山がすり減って、雑音もひどくなっていきました。それでも雑音が増した分だけ、曲が心に刻んでいくものも深まっていったように思います。

ひるがえって現代は、音楽を簡単に楽しめるようになって、それはそれで大変ありがたいものです。小さいミュージックプレーヤーの中にはCDが何枚でも取り込めますし、ネットを経由すれば無限の曲が楽しめます。もちろん雑音がないどころか、好みの音質で何度でも再生できますから、「すり減る」心配とは無縁です。曲に合わせて飛んでも跳ねても曲飛びしません。

それでも時々ラジオで昔のレコードを音源にした曲が流れるのを聴くと、その「プチプチ」という音がとても懐かしく、曲自体の懐かしさ、さらに当時の思い出の懐かしさと相まって、とても心地良い雰囲気をかもし出してくれます。

蓄音機とレコードが売れるようになったころ、エジソンは意外にも「わたしは蓄音機とレコードを、たのしみのために使ってもらいたくない。これはおもちゃではないのだ。仕事のためにだけ、使ってもらいたい」と考えていたそうです(『20の世界最初ものがたり、ロナルド=セス著、三石巌訳、講談社』)。それはともかく、利用者の皆さんと一緒に、昔の名曲を、レコードで聴いて、歌って、楽しんで、そして懐かしんでみるのもいいなあ、あの「プチプチ」という雑音混じりで・・・。そのように思った次第です。

涙の量

 「世界の涙の量は変わらんのだよ。一人が泣き出すと、どこか他のところで別のやつが泣きやむから・・・」

 これはボゾーという人の言葉だそうです(『生きるヒントになる名語録728』、轡田隆史監修、橋本一郎著、三笠書房)。

 果たしてこれは本当なのか?世界中で色々な事が起こっている昨今ですが、もし世界の涙の量が増えているとすれば、なんともやるせない事だと思います。もちろんそれが喜びや感動の涙ならばよいのですが、悲しみや苦しみの涙だったら、今の自分に何ができるだろう・・・、と考えてしまいます。

一番良いのは世界中が笑顔であふれることではないでしょうか。言葉でいうのは簡単ですが、「そんなの無理」と決めつけず、少しでもそれに近づけるよう、何かできるのではないか?そう思います。

老健施設に勤める者の一人として、せめて今目の前にする利用者に笑顔になってもらおう、と考えて仕事にあたる今日この頃です。

シェー

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 漫画「おそ松くん」は、「ギャグマンガの王様」こと赤塚不二夫さんの代表作の一つ。主人公の松野おそ松をはじめとするカラ松、チョロ松、一松、十四松、そしてトド松の六つ子を中心に、チビ太、デカパン、トト子、本官さんなどの個性豊かなキャラクター陣が登場し、毎回ハチャメチャギャグを展開するものでした。

 中でも強烈だったのはイヤミ。その名の通り「嫌味」な性格で周囲をかき回していましたが、何と言っても彼の決めぜりふ「シェー」は、一世を風靡する大大流行語となりました。

 あの「ウィキペディア」にも「シェー」で検索すると図解入りで詳しい記述が掲載されています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC)。世界の王貞治やビートルズ、そしてゴジラまでもが映画で真似ていましたが、当時は老若男女問わず、「シェー」とやっていたものです。写真はそんな事を知ってか知らずか、我が家の飼い猫が「シェー」とやったまま寝ていたものですから、思わず撮った次第です。

「おそ松くん」の連載スタートは1962年。これを読んで抱腹絶倒し、「シェー」とやっていた当時の少年達の多くも、65歳を迎える頃となりました。来年2015年は団塊の世代が高齢者の仲間入りをする年でもあります。漫画はもとより、音楽やスポーツなどなど、当時のことを振り返り、そこから数多くの「学び」を得ることが、新たなケアを展開していく一助となるのではないか?「シェー」をする猫を見ながら、そのように思った次第です。

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